黒田草臣の BLOG 

アクセスカウンタ

zoom RSS 金重素山‥‥陶芸家の逸話E 「茶陶と緋襷名人」

<<   作成日時 : 2011/06/30 23:34   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 28 / トラックバック 0 / コメント 0

父・金重楳陽が亡くなられた時、陶陽が20歳。素山は7歳であった。
13歳上の兄・陶陽は、兄であると同時に、父親のような役目を果たした。
それから11年ほど経った素山18歳の頃の昭和2年 陶陽の下手間として、この道に入った。
楳陽直伝の何ごとも体験で覚えさせる主義で陶陽も特別な指導をせず窯入れ、窯焚きなどを素山に体験させ、
全て素山に任せられるというところまで、兄・陶陽によって教えられたのだ。

「我々は貧乏生まれの貧乏育ち、しかし心の貧乏だけはすまいぞ。
心が貧しくては作品に品位がなくなる」

と陶陽は兄弟というより子供のように可愛がった。
「慣れない窯入れで、よく素地物を壊したりしたが、兄は決して怒らなかった」
という素山は大本教入信により、火・水・土の恩恵を知らされ、
「神の力による大自然の恩恵を知れば、その反面、恩に報いる気持ちが当然、起こる。
これが作陶に多大な影響をもたらした」
という。

画像
金重素山 伊部耳付花入

ところで
現代では土味を殺さない古式の穴窯を使い桃山の緋襷の再現を目指す現代作家は多い。
大窯を築いた森陶岳を筆頭に原田拾六、隠崎隆一、末廣学など多数である。
画像
原田拾六 緋襷徳利

登窯では金重陶陽、そして藤原建の緋襷も品格があって素晴らしかった。
陶陽最後の弟子という津山の和仁栄幸も、師匠譲りの緋襷を焼成し、成功している真摯な作家である。


備前は自然釉や窯変が命だから、薪窯で焼くのが当り前の世界である。
しかし、火襷には自然釉も焦げも必要ない。
そのため、薪窯で火襷を焼こうとすると匣鉢を必要とする。
ならば、電気窯やガス窯なら匣鉢もいらず、ただ作品に藁を巻付けるだけで良いし、
二三日で焼けるから、これほど便利なものはない……というわけで
火襷をガス窯や電気窯で制作する作家や窯元が多くなった。

ところが、釉を掛けない焼締陶である。
薪窯の作品とはその質感がまるで違う。
一見して肌がカサカサにしてしまっているのだ。
記念品など大量の注文を同じ様な焼けにするのに重宝しているが、
本物を愛する備前愛好者にとっては手の出ない。
ところが、金重陶陽の弟・金重素山は、思考錯誤の結果、
電気窯でも潤いのある火襷を焼成することに成功したのである。

昭和16年、金重素山の元に招集礼状が届いた。素山32歳のことだった。
大本教の教主・出口王仁三郎は
「この戦争は負ける」と予言していた。「負ける戦争ならば、死ぬものと覚悟せねばならない。
弟(素山)がいたら(一年に)二窯焚けるのに、
一窯で生計を立てるのには、どうしたらいいだろうか」
と陶陽は本気で考え、
40日間、じっと座ったままで窯の構造を変えることを考え続けたという。
そのお陰で窯を直し、運道から一番の方へ抜けていく火の通る穴、さま穴(素穴)へ作品を入れ、
考えていたよりも素晴らしい自然桟切の作品が焼きあがった。

画像
 金重陶陽 備前耳付花入(自然桟切による)

備前の作家たちは、その焼けを見て『秘密室』から生れたとうわさされた。
と同時に皿などを重ね、その間に稲藁を間に挟む緋襷を開発した。

昭和26年、素山42歳の時、大本三代教主・出口直日の招請によって亀岡の大本本部に出向き、
作陶を指導している。もともと金重家は以前から大本教を信奉していた。
指導した花明山窯はもとは石黒宗麿が指導していた。
石黒は鉄釉陶器や磁州窯の白化粧、赤絵、呉須絵、練込手など、さらに李朝系や唐津風の焼物などを指導、
素山だけでなく陶陽の作風にも影響を与えた陶芸巨匠だ。

素山は京都の亀岡にある大本教を通い、花明山窯へ移って、
第三代教主・出口直日の助手、あるいは大本教の日常の什器を焼く陶芸指導をした。
陶芸、織物、能楽など芸術を大事にする教団である大本教の窯は、
文化サロンのように京都の陶工・宇野三吾、美濃の荒川豊藏、鎌倉の北大路魯山人、
愛知の加藤唐九郎など、多くの有名文人陶工がやってきた。
素山はのちの鶴山窯と合わせて13年間程、京都で過ごした。
時には一ヶ月も滞在し、陶陽の亡くなるまで伊部と亀岡を往復した。
「自分を磨くこと」に勤めた素山は直日教主のお陰で心眼を開くことが出来たという。
大本教の三代教主出口直日の夫・出口日出麿が「素山」と命名。
伊部にある熊山という霊場とされている山が素山。
50歳の時、鶴山(綾部)の方でも窯が作られ、5年間ほど作陶した。
この時、信楽へ行き来し、鶴山の窯で信楽のほか灰釉、呉須絵、天目釉を一緒に焼いた。
花明山・鶴山時代、陶陽窯の窯焚には帰るなど伊部と亀岡を行き来しながら、
昭和33年、49歳の時に第5回の日本伝統工芸展へ備前の徳利を京都から出品している。
それから4年程後の53歳の時に、第9回日本伝統工芸展で備前大皿を京都から出品した。

画像
金重素山 緋襷茶碗
画像
彫塑的な高台が魅力

素山55歳の時、ようやく岡山に戻って来た。
素山の岡山後援者・前岡山ガス社長の岡崎眞一郎や岡山の有力者からの協力で
伊部ではなく岡山市円山にある岡山藩主池田家の菩提寺・曹源寺裏山に窯を作ることができた。
こうして本格的な作陶活動に入る。
円山では55歳から73歳まで18年間ほど茶陶を中心に作陶した。
素山の業績のひとつが京都時代に使いこなした電気窯による緋襷がある。
緋襷の仕事に素山が取り掛かった時、
「兄貴は全部備前の仕事をやってしもうたけど、緋襷の仕事だけ俺に残しといてくれた」、
「陶陽が俺の為に残しといてくれた仕事が緋襷なんじゃ」
と語った。

試行錯誤を重ねた。
テストであるにもかかわらず一番いい白地ばっかりを試験窯に入れる。それほど真剣であった。
20回程の失敗を繰り返して、温度の関係、そして電気窯に薪も少しくべて還元を掛けた。
白い肌に鮮やかな火の襷。
薪から出る水蒸気も影響し電気窯では考えられなかった潤いのある緋襷の焼肌だった。

「砂けの少ない浅葱色がかった観音ヒヨセが緋襷に最適。
これを粘りがでるまで寝かせてから水簸せず使って成型する」
と。
デリケートな観音土は水簸してはいけない。
白い工肌の中に細かい鉄分が含まれているあたたかみのある「モグサ」が出なくなるからだ。

「緋襷は電気窯で四昼夜かけて焼成し、最後に松薪で還元をかける。
湿気や焼き過ぎは地肌を暗くし、緋襷の緋色が冴えない」
と、
シットリとした白地焼肌に緋色の筋が交差した様はとても、電気窯で焼いたようにはみえず、
「登窯ではこの緋襷の味はだせない。電気窯より、良い緋襷はできない」
素山の長男、金重愫も緋襷には電気窯が最適という。
金重愫は今週、当苑で個展開催中である。
画像
金重愫作 登窯による緋襷丸皿

平成7年12月27日、山陽町の病院で肺炎のため、86才で亡くなられた。
発葬式は明けて平成8年1月15日、倉敷市の大本岡山本苑でしめやかに行われた。
金重道明の死去した一週間後だった。
伊部の窯元に生れ、伊部を誇りに思い、多くの人が箱書する「備前」と書かずに「伊部」と箱書し、
「伝統の地で作陶できることに感謝する心が大切だ」という素山の言葉は、
まるで若い作家へ遺言のように響いている。

2011年7月1日から 金重 愫 展開催です


 
◇黒田草臣 四方山話◇  

画像
夏サラダ:ヒノナ・ハンダマ・I パセリ・姫ニンジン・姫大根・枝豆 器:佐藤和次 織部片口


当苑スタッフ・ブログ“陶心” 毎週木曜日は―やきもの散歩みち―



画像ツバメオモト
Photo:Mr.Masami Tujioka




※写真や記事などの無断転載、再配信等はお断りします

しぶや黒田陶苑のホームページに








月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 28
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス
驚いた 驚いた 驚いた 驚いた 驚いた
面白い 面白い 面白い 面白い 面白い
ガッツ(がんばれ!) ガッツ(がんばれ!) ガッツ(がんばれ!)
金重素山‥‥陶芸家の逸話E 「茶陶と緋襷名人」 黒田草臣の BLOG /BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる