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zoom RSS 1929大聖寺『魯山人陶磁器大展觀』 そして長流亭

<<   作成日時 : 2016/11/09 22:05   >>

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「徳川家に謀反の意がない‥‥」と、
築城や軍備拡張という武治の加賀藩を文化の加賀藩に政策転換をさせたのは加賀藩三代藩主・前田利常と五代藩主・綱紀である。
蒔絵、彫金などの工芸、お茶などを奨励し、京都から裏千家の千叟宗室を招き、同道した土師長左衛門を大樋村で楽焼を開窯させて初代大樋長左衛門とし、能登の穴水中居で鋳物業を営んでいた宮崎義一を茶釜造りとして指導させて、藩の御用釜師「宮崎寒雉」と名のらせた。また金工師の後藤顕乗と従弟の後藤覚乗、蒔絵師の五十嵐道甫や清水九兵衛など一流の名工たちを京都から高禄で召し抱えるなど、加賀文化の礎を作っていく。

 とくに藩の殖産政策として陶磁器に目をつけたのは加賀前田藩の支藩である大聖寺藩の初代藩主・前田利治。利常の三男で元和4年(1618)金沢生まれ、母は将軍秀忠の次女・珠姫である。寛永16年(1639)22才の時、大聖寺7万石の藩主となった利治は小堀遠州に師事して茶道を好み、楽焼を楽しんだりしている。新田や鉱山の開発を奨励していたことで、領内に金山銀山を発見し、偶然にもこの鉱山開発中に良質の陶石が発見したという。

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魯山人所蔵の「古九谷赤繪小皿」(星岡29号)


利治はこれを機に九谷鉱山で錬金の仕事に従事していた後藤才次郎定次を陶業技術の修得のために肥前有田に派遣させ、製陶技術を取得させた。帰藩後、才次郎は田村権左右衛門らを指導して、江沼郡九谷村に窯を築いた。こうして「色絵磁器」(古九谷)の生産を完成させたとされている。


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大聖寺の料亭


北大路魯山人は昭和四年(1929)四月、この年、3度目、北陸では2度目となる『魯山人展』を大聖寺法華坊町の料亭『千登勢楼』で開催した。星岡窯で制作した青磁、仁清風、赤絵古九谷写、呉須赤絵、金襴手、黄瀬戸や染付など二百余点を展示即売会を開いた。

大正十年の夏、魯山人は大聖寺に訪れ、加陽陶漆會の二宮喜三(のちの大聖寺町長)と吉野伊作らは名所である吉崎御坊や竹の浦、そして原生林の鹿島などを案内し、また舟で大聖寺川を下り、長流亭の外観を観て感動した魯山人は、江沼神社熊田社寺の案内で前田利直の休息亭「川端御亭」と呼ばれた『長流亭』を訪れ、その茶室でお茶をいただきながら、
「京都の桂御所よりほかにはない立派なものだ」と長流亭の古雅なる建築を激賞し、同時にその荒廃を悲しんで「何とか保存の途はないものか、この珍しい建築を出そう」、と同道役の吉野伊作や前田一男を激励したという。

さらに大聖寺では赤絵細画を得意とする初代中村秋塘(1865〜1928)の窯にて絵高麗・色絵仁清地・赤地金襴手などで、星岡茶寮で使う食器や習作展出品のための作品を制作しており、魯山人にとって大聖寺とは縁も深いところ。
大正四年に「あらや」「菁華窯」「吉野屋」などの刻字看板や書画を多く残した山代温泉にも近い場所でもある。

徳川二代目の将軍の孫だからだろうか利治が統治した大聖寺町は格式も高く、長浜や福井同様に繊維業が発達して大聖寺羽二重で栄え、全国へ出荷された。

この大聖寺では鯉昇楼や清仁楼とともに大きな料理屋であった千登勢楼「ち登せ」は旧大聖寺川に面し、洋食も出すハイカラな料亭で、離れとして「公均の間」があった。
吉田公均は幕末・明治の画家。安政2年(1855年)、京都御所が造営された時、御学問所の杉戸に「花車図」を描いた。現在、江沼神社にある梅花庵の主座敷には天井に大きく「四季草花図」が描かれている。これを公均が千歳楼に逗留しながらを描いたので、「公均の間」といわれ、一時郵政省(大聖寺郵便局)の所有になったが、現在、梅花庵にあり、平成20年(2008)に国登録有形文化財に登録された。

明治から昭和のはじめ、千登勢楼も織物業の繁栄と機屋、絹問屋そして北前船主などの旦那衆で連日賑わいをみせていたという。庶民には無縁の世界だったようだが、千登勢の跡地は郵便局から老人センターとなり、繊維会社の跡地は深田久弥記念館などとなっている。


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『魯山人陶磁器大展觀』出品作「刷毛目水指」


その大聖寺の料亭「千登勢」で昭和4年4月13 〜14日まで、『魯山人陶磁器大展觀』を開催した。発起人は井上慶作、吉野喜七、吉野伊作、谷喜太郎、前田一男、大聖寺町長の二宮喜三など土地の名士のほか、
山中塗の辻石斎、陶芸家の矢口永寿、中村秋塘、山代の須田菁華。山代温泉の吉野恒、正木哲郎の名もある。

北国新聞の四月十四日朝刊には、
加陽陶漆會の同人が肝入りで魯山人の陶瓷展示會が十三、四日の両日大聖寺町千登勢の楼上で開會せられた。‥‥
◇…魯山人の製陶は余技なれど天性の藝術眼は別に一家の風格を持し他の追従を許さぬだけ出展脱俗の趣がある
◇…楼上處狭きまでに陳列せられたもの数百點大きなものは花瓶、繪皿、茶碗等から盃の数十点
◇…そして信楽、瀬戸、楽焼古来陶工の木地を襲ひ上釉や染附け、彫刻等の傳彩は別に山人一家の創意になるもの
◇…今度はけんらん眼を奪ふような製陶はないが澹乎たる雅美はそれぞれの表現を持ち見ていてもすがすがしい氣が起こる
◇…なほ今十四日も午後四時まで観覧随意だから一覧しただけでも損にはならぬ、しかし賣約は開會と同時に早くも赤札が貼られたから欲しくとも唾をのんで歸るより外はなかろう
(原文のまま)

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染付ムギワラ向付 五人


昭和4年4月28日、長流亭の修復に魯山人が一役かったという美談が、地元のミニコミ誌「聖城公論」第43号に載っている。
荒れ切ったる 長流亭を修復せん 魯山人が主唄者となりて
‥‥先月の十三、四の両日千登勢に於て魯山人の展觀が行はれた。その主たる世話人は二宮喜三、吉野伊作の両氏である。売上高は二千數百圓に上り主催者の得たる利益は三百圓位であろうと云ふ事である。
茲に於て長流亭修復の話は再び臺頭した。即ち展觀の主催者たる二宮、吉野の両氏は何も利益を取る意志もない。依ってそれを基本としてそれに有志をつのりそしてそれで長流亭を修復しやうと云ふのである。聞く處に依ると長流亭を完全に修理する時には二千圓以上の金が入るとか、今は到底そんな根本的の大修繕は出来ないがから荒廢を防止する程度に止らるゝであろう。彫刻に就いては魯山人自ら刀を揮ひ昔の名工に負けぬやうな立派なものを彫り上げる意氣込みである
。‥‥
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この展示会は三千円の売り上げがあった。主催者の加陽陶漆會と利益を折半した魯山人はその純利益700円をポンと「国宝建造物になる資格がある長流亭を世に出す運動資金」として提供した。
これに感激した二宮は時の町長・西村友幾とともに動き、さらに下村寿一 、竹田餞一、宮本謙吾らの努力で文部省に前田家にある 古文書と古地図を 提出。昭和8年12月15日付で「国宝」に指定されたのである。(昭和25年文化財保護法の施行により重要文化財に改称された)

魯山人は鎌倉の星岡窯に数寄屋造りの立派な建物「慶雲閣」を移築したばかり、
良きものを大切にする‥‥美的生活の実践者である魯山人としては当然のことだったのだろう。

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1998年焼失前の慶雲閣(高木 義明氏)


※参考資料:「江ぬのくに」、「聖城公論」、「星岡」
※この度は辻岡正美様と鈴木豊明様に多大なるご協力をいただいました。厚く御礼を申し上げます。
石川県九谷焼美術館では平成29年1月22日まで「初代中村秋塘とその一門展」が開催されております。

魯山人「大雅堂」・「美食倶楽部」発祥の地
 魯卿あん‥‥Rokeian画像定休日:日曜日・祝日


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 辻岡正美様 撮影



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