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zoom RSS 金重陶陽は「備前の生き神様」そして「備前焼中興の祖」

<<   作成日時 : 2017/02/27 22:29   >>

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1967(昭和 42 )年の春、一人の青年が金重陶陽と金重道明の門をたたき、中庭の見える居間に通された。
昼寝をしていた金重陶陽が、作務衣に着替えて現れた。
「やきものは教えられるものではなく、自らが感じ とらねばならない。
作品は生れてくるものだから、 本人の人間性を高くしなければ良い作品は生まれて こない」

と、正座して 30 分ほど説教された。
 
金重陶陽画像当苑「からひね会展」より


すでに 60 年近くも陶業に携わってきた陶陽だった。そこで悟ったのは、
「内 面からの美しさは“土・焼・造”が大切」
という陶芸家としての基本であった。

明治以来、土管や土産物だけに頼っていた備前焼の土の作り方、窯の構造や焚き方、窯詰の仕方も大幅 に変えた。こうして存亡の危機を見事に払拭して救世主となって“備前の生き神様”と言われ、小山冨士夫には備前焼中興の祖”と讃えられたのだった。

江戸時代から小奇麗な伊部手の細工物を生業とした陶家に生まれた陶陽は鳥類の細工物を得意としていた。
細工物は型に粘土を入れて作られるが、型抜きした後の技術が問われる仕事である。
得意の鳩や雄鶏などの鳥類は型抜きの後、箆や竹串を使って羽毛を一本一本ずつ精緻に彫り上げた。
乾燥を一定させるため、粘土に砂糖を混ぜた。その潮解性により、乾燥時のひび割れや剥離を起こすのを防いで、羽毛の線がくっきり出すことができた。
細かな手加減で操作するため、必ず繻子の布団を敷き、その上に作品をのせて細工し、デコ師として伊部の名声を勝ち得たのである。
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金重陶陽 宝瓶


本場中国の宜興や青木木米による煎茶道具が脚光を浴びていた時、急須百種を試作し、二十九歳の時、備前で初めて宝瓶を苦手な轆轤を使わず手捻りで制作した。長時間焼成の備前焼は宜興のものより丈夫で使いやすいと宝瓶の流行をもたらした。
「置物ばかりやっていては堅いものしかできなくなる。もっとふっくらしたものが作りたくて轆轤をはじめた」
、「備前のよさは茶陶にあり」と考え、
耐火度の高い棚板を考案して、備前ではじめて胴木の間に作品を入れ、焚口に蓋をして重厚な胡麻や緋襷を成功させ、焚口に近い所にも作品を置いて “窯変の妙”を狙うなど窯詰めの形式も改良した。
備前発祥の地ともいわれる熊山の古窯址で見つけた陶片の素晴しい土味が忘れられず、その土味を出すことを主眼にして、 「土」の窯印を用い、花入、水指、茶入、茶碗などの茶陶を制作した。こうして茶の湯の家元や川喜田半泥子、荒川豊藏、十代三輪休雪、北大路魯山人などという諸先生方と交流することもできた。

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金重家の手轆轤


轆轤に徹しはじめた昭和12年頃、古備前では焼かれていなかったぐい呑を作ろうと古唐津を参考にして作った。人から「ぐい呑って、なに?」といわれた時代だが、徳利とともに酒器作りにも力を入れた。
広島などの酒蔵からきき酒によばれるほど酒好きだった陶陽は、お燗したものを正座して徳利を傾け、自作のぐい呑で飲んだ。
ある時、一升以上を呑んだところに碁の相手が来たが、断るどころか碁の相手になっても勝ってしまうほど、いくら呑んでも酒に呑まれることはなかった。その証拠に、上京する度に岡山から東京まで夜行列車の寝台で胡座をかき、一晩中、飲み明かし、その足でデパートの個展会場へ行き、終始、矍鑠とされていた。

「我々の祖先は窯の火を絶やすことなく千年の歴史を守り抜いてきた。備前焼を日本の焼き物として残してくれた。祖先に対する感謝の念をもち、“土に素直に、火に素直に”というのが私の信条で、小さい頃から土に感謝していた」
と、貪欲なまでに土探しを徹底的にした。
有名な話だが、土をかじって、土味の良さを感じとり、 「米より大事な土」を探し歩いた。弟の素山先生と二人で田圃の土をほじくり返しながら畔道を歩き、田と畦の間に溝を掘り、良い土の出る田圃を調べあげ、伊部田井山の『観音土』を発見した。良い土味の表情を保つため、採取した土は篩通しや水簸をせず、指先による土選りと足踏みで土を作り、数年ムシロをかぶせて寝かせ、“土に素直に”土のもつ可能性を最大限に引き出していく。

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陶陽作 備前窯変花入 二種


陶陽窯では「窯詰で八割方終了」というのが原則。小さな窯に詰めるだけで一週間から十日掛ける。
「窯と話が出来なければ窯は焚けないという父陶陽の割り木のくべ方は、丁度、歌舞伎役者か何かを見ているようだった。少しでも雑なくべ方をすると厳しく叱られた」
と金重道明はいう。窯詰だけでなく、窯出しの時も人にやらせない。自ら一つ一つ慎重に取り出し、焼けの加減を見ながら次の窯詰には如何に詰めるかを考える。

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金重陶陽  備前沓茶碗


茶陶を制作する轆轤は陶陽先生の意向に従って助手が押す手轆轤を使った。イサム・ノグチの助手だったJ・B・ブラウンが陶陽先生に一年半ほど師事した。先生が茶入を作るのを見て、
「大変苦しそうな顔をしていますが、気分でも悪いのですか。先生のそんな顔を見たことがありません」と指摘された。自分の様子に驚き、
「ああ、こんなことでは、いいものは出来ないな」と思ったという。 
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陶陽書「桃里 陶人郷




箱書は人柄そのままの端正な楷書である。いきなり書かずに天地を見極めてから姿勢を正して一字一字丁寧に筆を運ぶ。魯山人先生の「ロ」というサインの影響で作品に「ト」と刻銘を入れる時も、手にとった作品を眺めて、どの辺に入れるかを考えてから彫り入れる。どの仕事に対しも情熱をもって立派な作品を残したい責任感からであろう。      
 ― 別冊炎芸術「備前」(2017/2/20発行) 寄稿文より ―
  

玄関を入ると土間があり、左へ行けば仕事場と登窯。まず、玄関から茶室のような部屋へ上がり、さらに奥に客間があった。
脂松の床柱は漆が塗られたかのように黒光りしていた。縁側越しに明るい中庭の見える部屋で正座されて矍鑠とした陶陽先生のお話を聞いていた。
陶陽先生が亡くなられてから大事にされていた立派な牡丹が枯れてしまった‥‥それほどの巨星であった。


魯山人「大雅堂」・「美食倶楽部」発祥の地
 魯卿あん‥‥Rokeian
〒104-0031 東京都中央区京橋2-9-9    TEL: 03-6228-7704 FAX: 03-6228-7704
営業時間:11:00〜18:00
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辻岡正美様の撮影




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