黒田草臣の BLOG 

アクセスカウンタ

zoom RSS 金重素山 ‥‥ 火水土のご恩

<<   作成日時 : 2017/04/08 17:36   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

「耀盌」と呼ばれる独創的な楽茶碗を最晩年に創り出した出口王仁三郎(1871〜1948)は、
昭和23年1月、天界へと旅立った。
画像画像
出口王仁三郎 耀盌


明治25年(1892)に綾部で開教した宗教法人「大本教」は開祖・出口なおを初代教祖に、書をはじめ、陶芸、織物、能楽など芸術を大事にしていたが、
王仁三郎の没後2年を経て、その遺志を継承して妻・すみ子(二代教主)、その長女・直日(三代教主)や五女尚江、そして現在の五代教主出口 紅(くれない)へと継承されていった。
直日に初めて陶芸の手ほどきをしたのは金重陶陽である。
手ひねりのぐい呑100点を作って窯(瑞月窯)と作業場も整えられ、陶芸への本格的な歩みが始まった。
その翌年には京都の清水にあった本格的な登窯を陶芸家の宇野三吾から寄贈されて、亀岡の「天恩郷」に築かれた。「花明山(かめやま)窯芸道場」という名の作陶場も開設され、花明山窯築窯当初から今熊野蛇ヶ谷に住んでいた石黒宗麿が指導にやって来ており、石黒宗麿が轆轤を教えるなどした。石黒は鉄釉陶器や磁州窯の白化粧、赤絵、呉須絵、練込手など、さらに李朝系や唐津風の焼物などを指導しているが、これによって陶陽や素山の作風にも影響を与えた。
画像
花明山窯  練込水指


こうして金重陶陽はじめ、金重素山・宇野三吾・北大路魯山人・荒川豊藏・河井寛次郎・小山冨士夫・加藤唐九郎など日本の陶芸界を代表する作家が数多く集まるようになり、陶芸文化サロンとなった。

金重家は大本教を信奉していた。
「伊部にある熊山という霊場とされている山が『素山』」だと
命名したのは大本教の三代教主出口直日の夫で教主補の出口日出麿であった。
陶陽の元にいた素山は42歳の昭和26年に大本三代教主・出口直日の招請によって亀岡の大本本部に出向いて、日常の什器を焼くため直日に作陶を指導している。
備前から京都の亀岡にある大本教を通って直日の助手を勤め、大本教で使う日常の什器を焼くための陶芸指導をしていたのだ。

画像
轆轤に向う金重素山



「神の力による大自然の恩恵を知れば、その反面、恩に報いる気持ちが当然、起こる。これが作陶に多大な影響をもたらした」

と素山は教主のお陰で、火・水・土の恩恵を知らされ、
「自分を磨くこと」に努めたほど、熱心な大本教信者であった。
亀岡窯、そして昭和36年(1961)築窯の鶴山窯と合わせて13年間、京都を往来した。時には一ヶ月も滞在し、陶陽が亡くなるまで伊部と亀岡を往復した。

画像
金重素山 伊部窯変徳利


素山が陶芸の道に入ったのは18歳の頃の昭和2年であった。
陶陽の助手をし始めてから14〜5年経って窯焚きが任せられるようになった。
…金重素山32歳の昭和16年、招集礼状が素山の元に届いた。
大本教の教主・出口王仁三郎は「この戦争は負ける」と予言していた。
「負ける戦争ならば、死ぬものと覚悟せねばならない。弟(素山)がいたら(一年に)二窯焚けるのに、一窯で生計を立てるのには、どうしたらいいだろうか」
と陶陽は40日間、じっと座ったままで窯の構造を変えることを考え続けたという。
そのお陰で窯を直し、運道から一番の方へ抜けていく火の通る穴、さま穴(素穴)へ作品を入れ、考えていたよりも素晴らしい桟切の作品が出来上がり、備前の作家たちは、その焼けを見て『秘密室』から生れたとうわさされた。
画像
素穴で焼かれた伊部耳付花入


京都から55歳で岡山に戻って来た素山は岡山市円山にある藩主池田家菩提寺の森閑とした裏山の一角に登窯を築いた。当時は、児島湾までほとんど住宅がなかったが、今は住宅が密集している。
築窯して3年後、“備前は薪窯で焼く”という概念を覆し、京都での電気窯焼成の経験を活かして潤いのある白地の焼肌に鮮やかな緋の筋を交差させた緋襷を成功させた。
緋襷は室町末期から江戸初期までしか焼かれていない。
「兄貴は備前の仕事を全部やってしもうたけど、緋襷の仕事だけ俺に残しといてくれた。俺の為に残しといてくれた仕事が緋襷なんじゃ」と試験焼を重ねた。

画像
画像
緋襷茶碗


「砂けの少ない浅葱色がかった観音土を粘りがでるまで寝かせてから水簸せず使って成形」
という。
備前最上の土という観音土は水簸してしまうと、白い土肌の中に細かい鉄分が含まれている「モグサ」がでないからだ。四昼夜かけて電気窯で焼成し、最後に松薪で還元をかけた。

「こんな手で轆轤の喜寿の春」という句を書いた。
素山の手はあまり大きくないのだが、肉厚でふっくらとした手だった。
「やっぱりその思いが自分の手にもあったんじゃないかと思うし、あの色気とか、あの線とか何とか、やっぱりあの手から出てきたんじゃないか」

画像画像
金重素山 伊部(胡麻)茶碗


岡山市円山で18年間作陶した素山は故郷伊部にある南大窯跡の近くに築窯した。
「わしが使いたい、わしが面白いと思う茶碗を作りたい」と非常にゆっくりと回る轆轤で挽かれ、「わしは六割までしか轆轤をやってないんじゃ」と神経の行き届いた箆で豊かで雄渾の線を作り出す。高台削りは彫塑的な芸術性をもっていた。

画像
伊部耳付水指


京都亀岡の花明山窯、綾部の鶴山窯をはじめ、信楽、美濃、唐津、越前須惠、筑前須惠、倉敷鶴形窯、越中瀬戸でも作陶されたが、伊部を誇りに思って多くの人が箱書する「備前」と書かずに「伊部」と箱書し、「焼き物というのは、風土、そこの土地というもんが作り出すものだ」と感謝する心を忘れず、最後まで枯れることのなく瑞々しい作品を創り続けた。

金重素山‥‥「茶陶と緋襷名人」 http://01244367.at.webry.info/201106/article_2.html

魯山人「大雅堂」・「美食倶楽部」発祥の地
 魯卿あん‥‥Rokeian
〒104-0031 東京都中央区京橋2-9-9    TEL: 03-6228-7704 FAX: 03-6228-7704
営業時間:11:00〜18:00
 Email:rokeian-kuroda@jupiter.ocn.ne.jp
黒田草臣 BLOGこちら
しぶや黒田陶苑のホームページ戻る



画像
画像
辻岡正美様の撮影



月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
金重素山 ‥‥ 火水土のご恩 黒田草臣の BLOG /BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる