魯山人と古美術

魯山人の蒐集した古美術品は時とともに展がりをみせ、総数は五千点を上回っていた。そのひとつひとつが、新鮮なひらめきを大切にする創作上、そこから蝕知される手段は魯山人にとってはもっとも重要なものだった。すでに書家として硯をはじめとする文房四宝には拘っていたが、魯山人の修業時代、各地で食客となって古美術品の鑑賞によって鋭い審美眼を養いながら、実際に使用する茶道具、また料理における食器の役割の大切さを、制作するだけでなく使う楽しみとともに実践していったのである。  魯山人作 そめつけ竹鉢  蒐集の第一歩となったのは、23歳の時だった。明治38(1905)年、日本橋檜物町にあった帝国生命の文書係に就職した時のこと。京橋の東仲通りにあった古美術店でギヤマン紅切子鉢に魅せられた。それは三円五十銭、月給に匹敵するものだったが、無理して三回月賦にしてもらって手に入れ、会社の昼時に、純白の豆腐をこの鉢に入れて、美味そうに食べた。魯山人作 備前土ひだすき大鉢「昔から物は好むところに集まるとさえ言われている。眼のある所に玉が寄る…という諺もあるではないか。僕は二十才の頃から縁日その他で小さいものを少しずつ集めた」といい、大正5年には神田駿河台で『古美術鑑定所』を設け、さらに大正8年には京橋に古美術品を販売する『大雅堂』を開店させた。昭和6年、会員同志が愛蔵の古美術を持ちよって鑑賞する親睦会『洞天会』を星岡茶寮で発足させている。星岡茶寮の会員に茶寮内で各々茶席を持たせ、茶器は茶席で実際に使い、持ち寄った食器は会食の折りに料…

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 作陶40周年記念 丸田宗彦展 

2020 作陶40周年を迎える宗彦唐津 もう40年も前のことになった。この1980年はオリンピックをボイコットした年でもある。この年、高校を卒業した丸田宗彦が、民芸陶の父ともいうべき浜田庄司の三男浜田篤哉に弟子入りした。4年間の修業を終えて故郷の黒牟田に帰り、黒牟田焼の父丸田正美のもとで作陶をはじめた。昭和62年9月に唐津の古窯址が点在する武雄で「内田皿屋(うちださらや)窯」を築窯して独立した。現在は一気に1300度まで薪をくべ、一昼夜半の窯焚を年に7~8回のペースで斑唐津や朝鮮唐津、粉引を主力に焼成している。梅華皮や奥高麗、高麗茶碗など奥深い釉調の本質を突き詰めるため、ゆっくり温度をあげ、ゆっくり冷ます穴窯が不可欠と考え、地名をとって「皿屋川登(さらやかわと)窯」を築いた。効率の良い登窯に頼ってきた唐津では珍しい半地下式穴窯で、年に2度、この小さな窯を3昼夜必死に焚いた。それから、はや20年が経過した今年、作陶40周年を迎えた節目の年となった。新作の奥高麗茶碗を手にとってみた。質感が今までの彼の作品とまったく違うのに驚いた。土も釉も新たに開発したのだといわれ納得した。今まで内田皿屋、小峠、川古、錆谷、百間、黒牟田、祥古谷などの地元武雄唐津の古窯址をはじめ、初期唐津の宝庫・岸岳諸窯や山瀬、佐里、櫨の谷、藤の川内。そして多久高麗谷窯、甕屋の谷・焼山・道園・阿房谷・市ノ瀬高麗神など古唐津の名窯50か所以上を訪ねては土を手に入れ、毎年、土造りに励んできた。その昔、桃山時代の陶工から顧みられることなく眠…

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目の眼「東京 京橋」‥‥変わりゆく古美術の街

京橋ゆかりの人 北大路魯山人 魯山人と京橋魯山人と京橋 魯山人芸術の根幹をなす書道、そして絵画、篆刻、料理、陶芸など‥‥ずば抜けた知性と行動力をもって革新的な可能性を見出し、それらを融合させた“魯山人芸術”の基礎を創ったのが京橋時代であった。魯山人「風雅陶苑」消失するまで東仲通りあった二頭立ての馬が軌道の上の車輛を引っぱる鉄道馬車が京橋~上野~浅草間を走っていた明治三六年(一九〇三)、時まさに日清戦争に勝って国運の高揚し、煉瓦造りの洋館やガス灯など西欧化が進んでいた。日本男児なら誰しも徴兵検査を受けなければならない二〇才となった魯山人は、近視のため兵役が免除された。この年、「あなたは上賀茂神社の社家・北大路家に生まれ、生母の登女は東京にいる」と叔母の中大路屋寸から聞かされた。六歳の時、五番目の養父母となった時から福田姓を名のってきたが、「きたおおじ(・・・・・)」という響きに生家への誇らしさを感じた。これを期に書家として大成したい、まだ見ぬ母登女に一目会いたいと上京を決意した。勤めていた西洋看板屋からの給金五円を懐に上京し、屋寸の娘カネの嫁ぎ先である東京市京橋区高代町「松清堂」の丹羽茂正を頼った。ところが母には人目をはばかるように冷たくされ、中林梧竹ともに「明治の三筆」といわれた巌谷一六、日下部鳴鶴に会うがその姿勢に失望して、独歩の道を歩むこととなった。書道塾を営む魯山人の教え方は理詰め、弟子たちは分かりやすく教えてもらえることで評判を呼び、翌年、日本美術協会美術展覧会に初出品した「隷書千字文」が…

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しぶや黒田陶苑 50周年記念展 『田中佐次郎 自撰 五十』

田中佐次郎先生が30代のころ、安土桃山時代に焼かれた唐津の名窯を足繁く発掘調査されていた。岸岳の斑唐津をはじめ、牛石、阿房谷の絵唐津、そして幻の名窯と謳われた山瀬下窯では絵斑唐津に魅せられ、凄まじい「古唐津再現」への意欲に燃えてこられた。 井戸茶碗独立されて登窯を築かれたのは長閑な田園地帯にある唐津常楽寺の境内。半田川の清流に石橋が架かり、渡ると常楽寺の山門。二階部分が鐘楼堂になっていた。佐次郎先生が40才のころ、その川沿いにある登窯と工房にはじめてお邪魔した。お会いすると穏やかな優しさのなかに、ひとたび斑唐津や加藤唐九郎、小山冨士夫の話になると若武者のごとく眼光炯々となる。辰砂ぐい呑   絵唐津徳利・ぐい呑「高台のチリメン皺に醍醐味があり、土味は明るくて品格を感じさせる山瀬窯を再興したい」といわれ、数年後、山深き山瀬に分け入り、苦行難行のなか荒野を整地して谷川の流れる絶好地に長大な15連房の割竹式登窯を50歳の時に築かれた。耳付花入当苑での初個展は1985年、以後、毎年のように開催していただき、「山瀬築窯記念展」、「30周年記念 三十碗展」、「40周年記念 高麗茶碗展」などその節目ごとに驚愕ともいえる作品を発表されてこられた。瑠璃天目茶碗この度、当苑は50周年を迎えての「田中佐次郎 自撰 五十」展として、初窯以来、挑んでこられた「斑唐津」や李朝古窯址を巡って掴みとられた「井戸茶碗」という佐次郎先生渾身の新作をお願いした。         しぶや黒田陶苑   黒田草臣魯山人「大雅堂」・「美食倶楽部…

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『巨匠の高麗茶碗』‥‥炎芸術別冊 高麗茶碗

巨匠の高麗茶碗明治時代、文明開花の名のもとに押し寄せた西欧様式やオートメーションなどの新しい技術や機械の導入が、古き良きものを捨ててしまう新しい価値観を生み、わが国の「侘・寂」という独特の美意識が無視されてきた。李朝代に焼かれた高麗茶碗も日本の一部の数寄者だけがその良さを理解しるにとどまっていた。ようやく桃山復興や高麗茶碗の再現が叫ばれてきたのは昭和時代になってからだ。「井戸、三島、粉引、無地刷毛目、刷毛目、熊川、斗々屋、蕎麦、呉器などの上釉は高麗青磁の流れを汲むものだ」と、本物を知る川喜田半泥子や北大路魯山人らを筆頭に、粉引、刷毛目など白を際立たせる透明釉(石灰釉)ではなく青磁釉を掛けて匣鉢を使わず薪窯での滋味あふれた高麗茶碗の再現に成功した。真摯に高麗茶碗を追いかけた河村蜻山の「三島茶碗」や吉賀大眉の「井戸茶碗」も心に残る秀逸な作品を残している。川喜田半泥子 井戸茶碗 銘「白菊」東の北大路魯山人とともに自由な多芸多趣味の人生を貫いた西の川喜田半泥子。「数寄者の作陶だ」とみられがちだが、その研究心はプロの陶芸家顔負けだ。高麗茶碗においても1913年から朝鮮半島に渡って各地の陶土を掘り当て、「李朝初期」を好み、井戸や刷毛目、粉引、割高台などを制作するようになる。1934年には鶏龍山古窯址を発掘調査してから築窯のヒントを得た半泥子は自らの手で胴木間を長くした三袋の登窯を築いた。その数年後の1937年、高麗茶碗の「無地刷毛目」が焼かれた全羅南道務安郡望雲(マウン)半島にあった廃窯を直して全長六、七メー…

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十三代三輪休雪襲名 雪嶺展

既知の陶芸の枠を超越した巨大なオブジェを構築され、近年では「エル キャピタン」という大自然からの圧倒的な存在感をイメージされた茶陶を創られて、私たちを掌の世界でも魅了してくれる和彦先生が三輪家の十三代目休雪を継がれ、とてもうれしく心よりお祝い申しあげます。 ※これを記念して、東京日本橋、京都、大阪、名古屋の高島屋各店にて「十三代 三輪休雪襲名 雪嶺展」が、9月18日から開催されます。 どうぞ渾身の力作をご高覧いただきたくご案内申し上げます。 雪嶺 / 花器土との鮮烈な交感茶味を湛える三輪家の門をくぐり、苔むす侘びた佇まいの不走庵に初めてお伺いしたのは、もう半世紀近く前のこと。十代休雪先生が、ご隠退なさって「休和」を名乗られ、弟の休先生が十一代休雪を継がれて間もなくのことでした。明治維新とともに苦境に立たされていた萩焼でしたが、十代休雪(休和先生)は、それまでの萩にはなかった独特の「休雪白」を創始し、茶の湯のみならず鑑賞陶芸として萩焼の地位を高められた“萩焼中興の祖”でもありました。 ご尊父・十一代休雪(壽雪先生)は、轆轤に頼っていた花入や水指、喰籠などを土の塊から刳貫いて制作され、さらに原土をより分けた荒々しい土を使った白萩茶碗に十字高台や花冠高台という凄まじい迫力から立ち上がる「鬼萩茶碗」を創りあげられました。「手が傷だらけになるが、これぞ鬼萩というのをやってみよう思った」といわれ、慣習的な茶の湯のお道具を作る保守的な萩焼にとって衝撃的ともいえる圧巻の萩茶碗を創られました。…

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曜変天目‥‥その真に大接近

曜変天目は「ヨウヘン」、「容変」、「耀変」、「影星」などといわれてきた。 『東山御物』にある美の中でも茶碗の王座を占めていた曜変天目は、天空の神秘さを思わせ珍重されている。 現在、その国宝『曜変天目』の三碗が、MIHO MUSEUM、静嘉堂文庫美術館、奈良国立博物館で同時期に公開という千載一遇のとき、第二回「曜変天目 瀬戸毅己展」の開催の運びとなりました。 瀬戸毅己曜変天目茶碗 曜変天目を再現するのは“至難の業”である。 初めての人間国宝となられた石黒宗麿先生は、 「あまりにも豪華な、宝石をちりばめたような曜変天目茶碗。‥‥僕は一生かかって曜変天目の色見をしていたようなものだ」(月刊文化財)といわれ、 窯変米色瓷を完成させた岡部嶺男も、44歳の頃から天目に挑み、 「耀窯天目盌」や「窯変嶺燦盌」を完成させるも道半ばで倒れられてしまった。 また今日の陶芸界においても、数名が挑んでいるが、どれも写しの範疇がぬぐい切れない作品ばかりだが、 瀬戸毅己の曜変天目は真に迫っている。 昨年、ご好評をいただいた「曜変天目 瀬戸毅己展」から丸一年が経過して、 この一年間、曜変天目を狙った窯焚は80回に及んだ。前回より10回増えたことになる。 曜変天目見込 瀬戸毅己先生の曜変天目へ賭ける強みは、徹底した釉薬の研究と不純物の多い黒胎の素地、それに不安定な窯である。 窯は灯油窯。ガス窯や電気窯のようにコントロールしやすい窯ではないから、焼成に…

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曜変天目の茶碗や酒盃

曜変天目2019.5瀬戸毅己 曜変天目は生産地の中国において、これまで文献上の記述もなく、現物はおろか、陶片ですら見つかっていない状態であったが、2009年末に杭州市内の工事現場から曜変天目の陶片が発見された.。 曜変天目の出土場所は、南宋の都がおかれていたかつての宮廷の迎賓館のような所だった。(2012年5月に中国の杭州南宋官窯博物館館長・鄧禾頴が発表) この陶片は昨年、当苑での個展で発表された瀬戸毅己の曜変天目に酷似している。 瀬戸毅己 曜変天目部分2018.5 濃い瑠璃色から銀色にいたる神秘的な輝きをみせる瀬戸毅己の曜変天目。 厚くかかった天目の複雑な釉景、土見せの焼きしまった黒胎など、 上辺だけの輝きでない深味を伴った曜変天目である。 曜変天目茶碗2018年個展出品作 今年も5月24日から開催される、しぶや黒田陶苑での「曜変天目 瀬戸毅己展」での曜変天目茶碗、そして曜変天目酒盃をご期待ください。 瀬戸毅己曜変天目酒盃(2018年個展作品) 曜変天目 瀬戸毅己展 会期:2019年5月24日(金)~28日(火) 会場:しぶや黒田陶苑 魯山人「大雅堂」・「美食倶楽部」発祥の地  魯卿あん‥‥Rokeian 〒104-0031 東京都中央区京橋2-9-9    TEL: 03-6228-7704 FAX: 03-6228-7704 営業時間:11:00~18:00 Email:rokeian-kuroda@jupiter.ocn…

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唐津 丸田宗彦2019

肥前武雄の丘に佇む丸田宗彦邸‥‥ ここ唐津古窯址の郷に、登窯と新居を設営したのは三十年以上も前のことになる。 五風十雨の時を経た名庭を見るような木漏れ日の差し込む路地に一歩踏み入れると、踏石と苔の対比が茶趣を湛えて迎えてくれる。 陶芸家には抜群の環境の中、唐津では珍しい穴窯、そして伝統の登窯で焚き続けてこられ、 桃山時代から続く唐津焼を、より伸展させて『宗彦唐津』というべき作品が窯出しされ、その度に目を瞠らせる。 朝鮮唐津壺 桃山の昔、高雅な茶陶を焼いた唐津だったが、江戸の前期から昭和の初期まで長いトンネルをくぐって、 ようやく陽の目を見たのは石黒宗麿をはじめ加藤土師萌、小山冨士夫らの諸先生がその魅力を世に広めた昭和時代になってからだ。古唐津再興とその隆盛を力強く後押しされてきた。 こうした礎のもと、常に研鑽を怠らず、古唐津の魅力を一歩進めた『宗彦唐津』は “やきもの”の面白さで応えてくれた。 斑唐津壺 古伊賀や備前をも凌駕する激しい焼上がり感じさせる斑唐津や朝鮮唐津の壷。 桃山時代に美濃で焼かれた瀬戸黒をも髣髴とさせる引出黒茶盌。 自信のほどを、淀みない描写力で魅せる絵唐津や絵粉引など…… 唐津黒茶碗 長男の宗一廊君が武雄の窯で初期伊万里を、益子で修業された次男の雄君も父が育った黒牟田の大きな登窯を継承して絵唐津を追及されているから、丸田に後顧の憂愁はない。その笑顔も晴れやかに感じとられ、将に潮の満つる58歳の春がきた。 丸田宗…

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唐津 田中佐次郎…心豊かな人間性も投入

なだらかに起臥している山脈(やまなみ)と鏡のようにおだやかな玄海の潮(うしお)が望める海抜700メートル山頂の山瀬‥‥ この自然風光を独り占めにする陶匠は、陶も禅も掌中の珠だと諦観する禅者の境涯を持っている。 それは世俗的な名利に囚われず、枯淡の域に徹底しているからだろう。 唐津石はぜ茶盌銘「朝まだき」  唐津の常楽寺の境内に窯を築いた数年後に先生をはじめてお訪ねした。 当時の唐津陶芸界にあって、希少な俊雄として向後を背負う作陶家だと直感した。  永平寺の教義を尊奉する先生は終始ものごとを善意の目で貫き通され、啐啄(そったく)の機(き)そのままに、辛抱強く精進され、窯焚には全神経を傾注する。その窯炎のなかに渦を巻きあげる転廻(りんね)転生(てんしょう)の光焔が格段と輝く天意をも掴み取られたのだ。 唐津片身替茶盌銘「立弁慶」 行動力は作品に反映する。精進潔斎(しょうじんけっさい)して心身の遍歴を重ねた心念のもと、山瀬の山肌を覆っている土を掘りだし、土の感触からそそられた感興のままに轆轤を蹴る。 その茶盌の立ち上がりは生気溌溂、口作りは歯切れのよく、高台は逞しく小気味よい。さらに焔の洗礼を享けた色沢は滋味掬すべき深い味わいが窺(うかが)えて私たちを強く惹きつける。 茶陶の極天は侘びの境地。終生かけてやり通す情熱もさることながら、自己陶冶を推し進められ、神気をも味方にした覇気が漲(みなぎ)り、より深く茶味を漾(ただよ)わしている…

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やきものに捧げて‥‥しぶや黒田陶苑50周年記念「小山冨士夫展」

五十周年ご挨拶 思い起こせば、半世紀前の1969年(昭和43年)1月、数寄屋橋で3坪の店を借りて、小さな一歩を踏み出しました。 なによりも多くのみなさまに支えられ励まされて、作り手とコレクターの方々との真剣勝負の臨場感を、執り持つ機会を与えていただきましたのは幸運であったと感じ入っております。 深いご支援の賜物と心より厚く御礼を申しあげます。 これからも「使う楽しみのある美」を追求しながら、近現代の巨匠陶藝家の逸品を厳しい眼で選び皆様にご紹介してまいります。 たゆまず精進を続け皆様と対話をしながら美術商の本道を彼らと邁進してゆきたいと思います。 今後とも“しぶや黒田陶苑”ならびに“魯卿あん“を、なにとぞご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます   50周年という節目の年、まずは独立する前から公私ともに大変お世話になった小山冨士夫先生の個性あふれる作品を「50周年記念展」の第一弾として一堂に展示させていただきます。 しぶや㈱黒田陶苑 黒田草臣 小山冨士夫先生の想い出  「わたしを焼ものの道に踏み込ませたのも古瀬戸の陶片だし、私をさんざん苛めたのも古瀬戸の陶片である」と『永仁の壷事件』が明るみにでてのちに語られましたが、 小山先生ほど波乱万丈の生涯を送られた方を私は知りません。 大正デモクラシーの最中、社会主義に共鳴して家族の反対を押し切って東京商科大学(現・一橋大学)を三年で中退された。その後、ひとりの労働者として第一歩を踏み出すために蟹工船に乗り、小…

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井戸茶碗はどこから来たのか‥‥韓国古窯址を訪ねる

淡交社『なごみ』2019年1月号  大特集 茶人が愛した素朴のうつわ 高麗茶碗 なごみ一月号 P28~31 寄稿しました。その書き出しを… 井戸茶碗はどこから来たのか‥‥韓国古窯址を訪ねる 木立を渡る風や土の匂い……古窯址は果てしなく私のロマンを掻き立ててくれる。 うち捨てられた陶片から作り手の日常がみえ声さえ聞こえるような高麗茶碗の古窯址を訪ねはじめたのは40年ほど前、街にはハングルより漢字の看板が多かった頃だった。 松林が清々しい整備された『熊川古窯址』(2016年) 高麗茶碗を思う時、興味が尽きないのは茶趣深い井戸や三島、粉引茶碗が李朝初期に焼かれていたことだ。仏教の高麗から儒教の李朝へと国の理念も大きく変わったその時に、高麗時代では優遇されていた陶工の多くも賤民になり、弾圧を受けた僧も行き場を失った。素朴な作振だが品格ある高麗茶碗を誕生させたのは、生きるために陶工と有識者の僧侶が力を合わせ、人里離れた山間に窯を築いたからだと思う。 2009年古窯址で陶片をみる 高麗茶碗の王者として日本には数多く伝来している井戸茶碗だが、韓国には美術館や博物館にも伝世品は一点もなく、古美術店にも陶片すら皆無だった。 柳宗悦は「それは朝鮮の飯茶碗である。それも貧乏人が普段ざらに使う茶碗である。全くの下手物である。典型的な雑器である。一番値の安い並物である。作る者は卑下して作ったのである。」というが、はたしてそうであろうか。 浅川伯教は「井戸茶碗の形式を見かけな…

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丸田宗彦‥‥無類の逞しさで現代唐津を担う

古唐津と現代唐津の融合を見事に実現し、昨春には独立30周年の記念展を開催させていただきました。 そして今年は、当苑での個展が25回目を迎える節目となりました。 丸田宗彦唐津ぐい呑 丸田宗彦先生は1961年に黒牟田焼の窯元に生まれ、益子焼で修業して帰郷されて三年後、古唐津名窯の里・武雄に登窯を築いて独立。独立当初、民芸陶と唐津焼の両党使いの作陶を続けられていた。 当苑での初個展を経て、「唐津焼に一本に絞ったら」と助言した思い出があります。 彼の返事は「古唐津が好きです」と答えてくれた。 初対面は謙虚で先天的な善性さが印象的な青年でしたが、陶芸の三本柱(焼・土・作り)に対しては無類の逞しさをもち、その作風に対する心意気も並外れていた。 丸田宗彦朝鮮唐津窯変壺 朝鮮唐津や斑唐津はもとより焼締の粉引、梅華皮唐津、奥高麗、井戸、割高台、御所丸、刷毛目、三島、引出黒、織部、白織部、楽など、今まで唐津焼の範疇では思いもつかなかった技法をも取り入れた。 新しきものごとは真っ当には運ばないものだが、奇を衒うことなく耽々と加味し、唐津焼の新しき時代の流れを作ってきた。すべて努力の賜だが、前に遮るもの無きがごとくに、順風に帆を孕むごとく日を追って丸田宗彦の名を高めてきた。 奥高麗茶碗 古唐津のよさは、土のよさでもある。作り易くするために土をブレンドすることが多い昨今だが、古唐津への情熱が燃え滾り、自ら土を掘り、その特質を生かす単味で使うように心がけている。登窯と穴窯という性格の…

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魯卿あん  【大芸術家 北大路魯山人展】

『魯卿』と号するようになった北大路魯山人35歳の時、鎌倉の円覚寺に連なる六国見山を背にした明月谷に茅葺きの田舎家を住いにして「北大路魯卿」の表札を掲げました。 北大路魯山人銀刷毛目徳利と志野ぐい呑 ここ京橋東仲通りに古美術店『大雅堂芸術店』を開店したのは翌大正八年五月のことです。 鼈甲縁の丸眼鏡をかけ、自ら蒐集した古美術品を陳列しました。 魯卿は黒い中国服を着て、夏になるとステテコにチジミのシャツを着て店番をしながら時折、二階で依頼された篆刻など大きな体を精力的に動かし、毎晩帰るのは十一時半の最終電車。 東京駅から乗りこんで大船駅から人力車で帰宅しました。 大雅堂芸術店のちに美術店 北大路魯山人先生が「魯卿」と名乗り始めたのは、大正5年(1916)の33歳になった時です。岡本可亭の書生となって以来、唐代の「顔真卿」(顔魯公) に傾倒しておりました。魯とは愚か、大ざっぱで間が抜けていること。その「魯の字が好きだよ」と『魯卿』と名乗っています。 翌年には、神田駿河台のシンボルでもあるニコライ堂(東京復活大聖堂教会)の鐘の音が心地よく聴こえる紅梅町の借家に「古美術鑑定所」の看板を掲げて、書と篆刻の仕事もしておりました。 鎌倉に越したのは大正7年のことです。アジサイ寺といわれる明月院の門前にあった高梨家を借りました。谷川に架かる石橋を渡った茅葺き屋根の田舎家と納屋のような小屋があり、ここに「北大路魯卿」の表札をかけました。夏になると好物のスイカを谷で冷やし、家族皆で食べる…

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曜変天目‥‥瀬戸毅己"The mystery of Yohen Tenmoku"

曜変天目の謎  ‥‥ 漆黒の釉面が光を浴びると瞬く星のような大小の斑点が現れてくる「曜変天目」。 素地は鉄分の多い灰黒色の陶胎。これに光沢のある紫黒の天目釉が厚くかかり、あたかも星が瞬くような瑠璃玉虫色の斑紋が表われることから「曜変」(曜=星輝くの意)と名付けられた。 風流数寄の道を探求した足利義政の「東山御物」にある美の中でも茶碗の王座を占めて珍重されていた曜変天目‥‥その目録である『君台観左右帳記』によれば 「地は大変黒く、濃い瑠璃色や淡い瑠璃色の星型の斑点が一面にあって、黄色や白ごく淡い瑠璃色などが種々混じって、絹のように華やかな釉もある」と記され、 「曜変。建盞の内の無上也。天下におほからぬ物なり。萬匹のものにてそろ」とも記述されているほどの宝物である。 現在、『曜変天目』は世界に三点しかなく、全てが日本の国宝に指定されている。これらの曜変天目は800年前の宋代に福建省建窯の蘆花坪で焼かれたのではないかといわれている。ここには面積12ヘクタール、高さ10数メートルに及ぶ夥しい天目茶碗の陶片や窯道具が散らばっているが、今日まで曜変天目の陶片は一点も見つかっていない。 あるいは浙江省の武義窯で焼かれたものなのか、その出自の謎は深まるばかりである。 上辺だけのものではない 『曜変天目』を再現 志野織部黄瀬戸を追及していた瀬戸が曜変天目を実見して感動を覚えた1990年、『中国陶磁史』という論文に出会い、その中にあった天目の組成を調合して焼いてみ…

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コレクターのまなざし…西岡小十

小さな容のなかに語りつくせないほどの大きな魅力をもっている“ぐい呑”は手のうちでやきものを愛でるのに具合が良いからでしょうか、多くのコレクターに愛されています。 西岡小十  絵斑唐津ぐい呑  朝鮮唐津徳利 実業家のN氏もこの酒器の魅力にとりつかれ、その厳しい鑑賞力をもって、近現代陶芸家の優れた作品を愛蔵されてこられました。とくに素朴さのなかに豪放な酒器を制作する西岡小十先生に心酔されています。その秀作を集中的にコレクションされたN氏のご厚意で「コレクターのまなざし 小十の酒器」展を開催させていただく運びとなりました。 西岡小十先生 1987年2月 ☆☆☆唐津の古窯址を知り尽くした西岡小十☆☆☆ 当苑が唐津焼に力を入れるようになったのは、小山冨士夫先生の進言があったからです。永仁の壺事件以後、文化財保護委員会を退職した先生は1963年、出光美術館の顧問となって美術館の唐津古陶片所蔵の充実をはかりました。同時に陶芸家として再出発されて鎌倉二階堂の自宅に永福窯を築かれ、その後よくお邪魔するようになりました。ある日、小山邸の応接間で石黒宗麿先生との思い出を語られ、さらに唐津の話になり、ご愛蔵の草文の描かれた古陶片などを見せくださいました。 小十先生の朝鮮唐津や絵斑唐津の陶板 「素朴で野武士のような唐津は日本の窯跡のなかでも最も心引かれるところ」という小山先生の話を夢中で聞いていましたが、私は「古唐津はやきものとしての面白さや魅力を感じますが、現代作家の唐津焼はつまらないものが…

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西岡小十‥‥小次郎窯と小十窯

「古格を保った昔のままの土がいたる処にあります。心踊ります。明日から仕事にかかります。環境はよし、人情はよし、静かな中に清らかな高い響を周囲の風物から受けることができます。…中略… (唐津焼を)土地の人さえ知りません。骨董屋店を見てもカケラさえ見当たりません。完全に滅びてしまって、ただ、各所に窯跡らしい丘に高台など見られるくらいのものです。宝のような原料がかくも無尽蔵に何処掘ってもあります。」と昭和十年三月に石黒宗麿は大原美術館の武内潔真に唐津の実情を手紙に書いている。 中里太郎右衛門のお茶碗窯は倒炎式の石炭窯だったので、「古唐津に迫るやきものを再現するには薪窯でなくては」という宗麿の提唱で登窯を築くなど、唐津の理解者である古館九一、高取九郎、金平京一らと唐津の復興について古館邸に集まって真剣に考えた。 ところが、陶芸家では魯山人、半泥子、唐九郎、土師萌ら、研究者や数寄者では金原陶片、水町和三郎、古館九一、佐藤進三、青山二郎、白洲正子、小林秀雄、立原正秋、川端康成などが古唐津に注目したものの、小山冨士夫の努力が実るまで当時の唐津焼作家は日の目を見ることはなかった。 こうした中、小山冨士夫は、「素朴で野武士のような唐津は日本の窯跡のなかでも最も心引かれるところ」と、魅力ある古唐津の再現を現代陶芸家の手でと熱望していた。 西岡小十 斑唐津徳利 世間の名利私欲とは無縁‥‥  西岡小十は古唐津再興に邁進された陶芸家であった。 生涯、無冠‥‥これは小山冨士夫の助言によるもので…

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直木美佐‥‥内に茶心を包み込んだ楽茶碗

直木美佐さんの師匠は日本画家であり、楽茶碗の名手であった直木友次良先生である。 1903年、兵庫県神戸市に生まれ、日本画を描くかたわら義兄で陶芸家・江川拙斎の影響で楽茶碗の制作を始められた。63年頃より楽茶碗を発表、75年7月には船橋市松ヶ丘に築窯されて、日本画と楽茶碗を融合させた作品を発表された。渋谷黒田陶苑でも個展を開催されたこともある。 直木友次良黒楽「寿老」 速水御舟、小林古径、そしてゴッホやセザンヌの絵が好きで、幼少時代からイーゼルを使って、 大きな絵をいつも描いていた。 日本画を描いていた父上の影響で絵描きになりたいと思っていたに違いない。 20歳の頃、父・友次良は楽茶碗の制作を始められた。 その十年後、船橋に楽窯を築窯されてから、美佐さんは手伝いをするようになられ、自らも作陶されるようになった。 楽茶碗は炎と人為の合作である。 信楽や唐津の耐火度の強い土を使い、手ひねりで制作している。 黒楽釉は貴重な賀茂川石を粉砕して作ることも大事な仕事だ。 炭や薪を燃料に鞴を踏んで窯の火力を上げて一つずつ焼成する。 長次郎や光悦に倣い、深妙なる釉調と造形に挑んでいる。 この度、日本橋三越で10回目の個展を開催する。 「内に茶心を包み込んだ楽茶碗」は今回、私が書かせていただいた推薦文である。 黒楽茶碗「去来」 内に茶心を包み込んだ楽茶碗  楽茶碗への凄まじい挑戦は天命だろうか‥‥ 1981年に独立されて相模湾を臨む鎌倉の景勝地・稲村ケ崎…

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田中佐次郎‥‥純粋な芸術性を求める

 佐次郎作品を手にとると“芸術とは人である。人格である”と、つくづく思い知らされる。 たとえ粗放になりやすい土を使っても躍動感ある明快で小気味よき造形を創り出して、格調の高さを堅持するからだ。  五十数年前に燃えさかる焔をも感じさせる縄文土器に興味を持たれ、その発掘調査研究をされた。 さらに土に結縁する陶人として宿命づけられたかのように茨を払って拓いた山瀬で“陶禅一味”の生活を送りはじめ、「土を練ることこそは心を養う」と、人格の研鑽を基としてしぶとい(・・・・)土と炎と闘い続けている。 「昔のものよりも良いものを作らなければ意味がない」と力感溢れた古唐津を再現し、朝鮮の蔚山では深く思慮して気品ある高麗茶碗のすべてを本歌超えしたといっても過褒ではあるまい。 八海天目 茶碗                唐津石はぜ茶碗  ここ数年、過去に蓄積し温存したものすべてが堰を切って奔流したかのように古陶の範疇を超えた新たな美意識を創生している。それは誰もが成し得ない人の心を揺さぶる独特のえぐみ(・・・)を醸し出す雰囲気をもつ釉調であり、順風を孕んで五十数年の切磋琢磨の結晶がもたらす“いぶし銀”の味でもある。  諄いようだが、理論が先行して作品が後回しなるものが多い中に、自らの道を黙々と創り出し、その仕事で思想を語っている田中佐次郎の美学は別格であるといえるだろう。          2017年霜月                         黒田草臣 田中佐次郎 徳利・ぐい呑…

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瀬戸毅己‥‥曜変天目の再現

品格のある華やかさがある曜変天目 作品はすべて瀬戸毅己の曜変天目 多くの陶芸家が挑みながら失敗を繰り返した曜変天目 瀬戸毅己の曜変天目を観たのは八年前、 試行を重ね、漸くみごとな「曜変天目茶碗」を創り出し満を持して発表させていただきます 『深味ある輝き』は胎土となる黒胎 電気窯やガス窯の安定性を求めるのではなく、不安定な炎の流れをする灯油窯を使っている 1320度から1360度という他を寄せ付けない高温で焼くから 黒胎の素地から湧き出た複雑な成分が天目釉に滲みだす その恩恵が深味を感じさせる重要な要素の一つだ 白土を使った表面だけの結晶ではない 爽雑物の多い黒土から湧き出る本物の輝きを求めている 二つとして同じ結晶を形成しないのが瀬戸君の曜変天目高温焼成で天目釉が高台の脇まで、とろりと溶け出している 光線の具合で千変万化する曜変天目なので自然光で見て頂ければよいですが、 魯卿あんの茶室で特別な照明器具を使わずに私がデジカメで撮影したものです  茶が生える曜変天目茶碗 高台の土見せは本歌通りの黒胎 宇宙に浮かぶ満天の星のように輝きを放つ曜変天目  2018年3月に当苑で「瀬戸毅己の曜変天目作品」のデビュー展開催予定です 現在、京橋『魯卿あん』にて、お手に取ってご覧いただけます 湧き出た深味ある『曜変天目の世界』を観て頂きたいと思います 黒田草臣BLOG「曜変天目のこと」 …

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