黒田草臣

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zoom RSS 〜魯山人の後姿〜 二 序-下-  黒田草臣

<<   作成日時 : 2008/08/14 23:08   >>

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魯山人は異常なほど茅葺き屋根を好んでいた。
山崎に居を構えてから、自然との感性の交信を怠ることなく亡くなるまでの三十五年間、ここ鎌倉山崎の谷戸にある茅葺き屋根の下に身を置きつづけていた。


 
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鎌倉市山崎の魯山人邸を望む 左から参考館 慶雲閣 無境庵 応接室 登窯 仕事場 倉庫
中央に見える尖った茅葺屋根が、昭和十三年から黒田一家が映り住んだ家  (「星岡」より)


 慶雲閣の前庭にある蓮池には初夏から晩秋にかけて赤、白、紅、黄の花が絶えないようにした。
慶雲閣の左の奥まったところには白亜の館が松林に囲まれている。ここが、「古陶磁参考館」‥‥
魯山人が集めたおよそ三千五百点の古美術品が所蔵され、「学者の参考書籍」に匹敵するものとして魯山人はこれを師とし、ここから得た閃きをもとに作陶に励んだ。
 無境庵は慶雲閣の奥隣、当初は住居としていた数寄屋造りの「夢境庵」には茶室と仕事場があり、上絵付けや叩き成型、轆轤による削りの仕事をするようになった。
 隣接する自慢の登窯は瀬戸式と京都式、それに戦後、瀬戸式登窯を壊し、備前から移築した登窯を稼働させた。窯場と屋敷の東側にある山崎の田んぼは棚田になっており、登りつめると農業用水の溜池があった。
 
 竹林や松林に囲まれた魯山人邸‥‥
春は若芽に吹く微風を迎え、
夏は山の頂きに山百合が誇らしげに咲き、窓下に蛍を呼び、田には黄金の稲が実る。
秋、黄や朱に染め上げられた木々の葉が飾り、やがて劇的な散り紅葉となる。
冬は竹林の浄雪などをもの静かに眺める魯山人は、「自然は芸術の極致であり、美の最高である」というのだ。

 落ち葉の具合、濡石の具合、水の打ち加減から箒の用い方まで一つだっておろそかにしてはいられない魯山人は、
「凡てのものは天が造る。天日の下新しきものなしとはその意に外ならぬ。
人は唯自然を如何に取り入れるか、天の成せるものを、人の世に如何にして活かすか、ただそれだけだ。
しかもそれが仲々容易な業ではない。多くの人は自然を取り入れたつもりでこれを破壊し、
天成の美を活かしたつもりでこれを殺している。
偶々不世出の天才と言われる人が、僅かに自然界を直視し、天成の美を掴み得るに過ぎないのだ。
 だから、我々は先ず何よりも自然を見る眼を養わなければならなぬ。これなくしては、よい書画は出来ぬ。
絵画然り、その他一切の美、然からざるなしと言える」
 そしてまた、
「私は人間の皆が美しいことを好み、良いものを良いと分かり、本当の道を歩くことが本当だと分かり、
仮にも邪欲の道に陥ち入ることのないよう力を尽くしたい。
真の美術家になるためには、飽くなき美術道楽をすることにあると思うね。
人工美を極めつくした上に、自然美に眼を向け、これに没入することだね。
人工美だけでは何々流という奴になって、一向に面白くない。前者よりも後者が大切だ」
と、魯山人は自然が全ての源だというのである。

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山門から魯山人邸に向かう (「星岡」より転載)


 邸内にモンシロ蝶が行き交う春ともなれば土筆やノビル、タンポポが芽を出し、小川には沢蟹やドジョウが元気よく動き回る。田んぼには「マッカチン」と呼んでいた真っ赤なアメリカザリ蟹が両手を広げて大きな爪を開き、こちらを威嚇する。
 田螺好きの魯山人は、「田んぼの田螺でないといけない」という。
「いくらでもいたからね。三十分位で田螺がびっしり詰まってくる。バケツに一杯になったら魯山人のところへ持っていくと、嬉しそうに五十円くれた。この頃、一円出すと紙芝居でも特等席だったから嬉しかった」
というのは、従兄弟の寿之である。
 この好物の田螺と湯豆腐の薬味にも使う蕗の薹などを私たちが採ってブリキ(トタン)のバケツに入れて凱旋すれば、吊りズボンに鼈甲の丸縁眼鏡をかけた大柄な魯山人は相好をくずす。
 そして泥だらけの私たちを織部のタイルを張りめぐらした五衛門風呂へ入れてくれるなど、いつもやさしいおじさんにみえたのだが、そんな魯山人を私の父・黒田領治は、
「富士山の如き人」といった。
 遠くからながめると実に偉大な天才であったが、一歩近づけば、ごつごつした岩だらけの始末におえない男であったというのだ。

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北大路魯山人の代表作  ――椿大鉢―― 
       魯山人にしか出来ない閃きで 際立つ名作を創作
       筆を省きながら存在感を示す‥‥まさに神業
       「当意即妙」で圧倒的な存在感を生んだ


 明治、大正、昭和という激動の時代を生き抜けた魯山人だったが、その生い立ちは不遇そのもの。誕生以前に父に先立たれ、母に見捨てられ、里子にだされて養家を転々とした。その辛酸な境遇ゆえか、反骨精神が宿り、人を人とも思わぬ協調性のなさ、傍若無人さ、五人の妻を次々に変え、人を罵倒し、誰とも決して妥協をせず、家族をかえりみない冷酷で無慈悲、情け容赦のない傲岸さをもつ男だったともいわれている。

 人は人との出会いによって助けられるものだ。血縁には恵まれなかった魯山人も書画、篆刻、料理、陶芸、漆芸、建築、造園などの空間に至るまで総合芸術を完璧に追い求めることで、さまざまな分野での才覚とともに多くの人たちと交わり、つねに人々を驚嘆させる才能を開花させた。
 ところが、とりわけ世話になった細野燕台や中村竹四郎、内貴清兵衛、松永耳庵、そして私の父とも仲違いした。

 しかし、私には、とても気のやさしい寂しがり家で、傷つきやすい神経の細やかな人にみえてならないのだ。
自衛のためか、その反動が研ぎ澄まされた感性や魯山人の孤独な心を解せない人々に、
「悔しさ」として向けられたのではなかろうか。
魯山人には一瞬にして白・黒をつける感受性の豊かさがある。
その尊大な行動、歯に衣着せぬ物言い、食への貪欲さ…これぞ魯山人の純真無垢ともいえる持ち味だ。
 それらは彼の独立独歩の人生感と芸術を形成するためには避けて通れないものだったと思えてならない。
全てに独学で師匠を持たなかったことを、
「師に縛られないから、幸いだった」といい、晩年には、
「親も子もなく、妻もいない天涯孤独を楽しんでいる…」と、いい切った。


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藤沢市用田の伊藤家から移築したころの魯山人邸の母屋「春風万里荘」 慶雲閣側から撮影(加谷一三氏撮影)


 明治三十八年一月、愛知県の宮大工兼材木商に生まれた私の父・領治は、小学校を卒業すると、次男坊ゆえに、大正八年に上京して、東京銀座の瀬戸物屋に丁稚奉公をすることとなった。
 十五年間の修行ののち、昭和十年二月、日本橋に独立した。
三年後、店も軌道にのり、三人の子供の誕生で、店舗付住宅では手狭になり、魯山人の厚意で魯山人邸の二階家に移り住んだ。
 この家は小坂小学校の裁縫室を移築し、魯山人が参考館と応接間に使っていた屋敷である。
登窯へ直接行ける玄関が二階にある変わった家で、父はここから、東京まで通った。
戦前の臥龍峡には街灯もなく、漆黒の中、「両手を拡げて両壁を確かめながら通った」という。
ここで私のすぐ上の兄が生れて、魯山人に「靖親」と名づけられた。
 昭和十七年に慶雲閣や母屋と同じ持ち主より、『元禄十六年』と彫られている大きな屋根裏の大柱がある屋敷を魯山人の紹介で山ノ内に移築し、その年、この家で私が生れた。

 子供の頃、父の使いで自転車に乗って、よく魯山人のところへ行かされた。切り通しにさしかかる坂は急な上りなので自転車を引き、臥龍峡の薄暗い切り通しを抜け、自転車にまたがり、父から預かった代金を届けたり、箱書きをしてもらいにいった。
いつも私たちには、やさしい笑顔で接してくれた。
 依頼された箱書き一つにも材質や造りにこだわり、書にいたっては筆、硯、紙、墨のすべてが一級品のみを使う。それら全てを見抜く眼力は凄まじいものがある…と父から幾度となく聞かされていた。
 窯の職人さんたちは魯山人が留守ならば「ド山人」と陰口をいいあう。
そこに吊ズボンの大柄な魯山人が「エヘン、エヘン!」と咳ばらいをしながら近づいてくると、みな、
「何か言われるのでは‥‥」と、いつもピリピリしているようにみえた。

 父は魯山人との深いつきあいののなかで、魯山人に注文したもの以外にも、窯出しの度に買い集め、家の縁側の下には夥しく増えつづけた織部や伊賀の皿や鉢などが積み重ねられていた。
当時の私は、その価値もわからず、縁下からはみ出していたその器を遊び道具に使っていた。
それはパチンコの標的だったり、鬼の陣地だったりしたのだ。

 現在、鎌倉市梶原に住む叔父の黒田保(父の弟)は大正七年一月二日生れ、昭和二十一年三月から魯山人の最晩年にあたる昭和三十三年までの十二年間、魯山人の登窯が目の前にある二階家に住み込んだのである。
       


◇黒田草臣 四方山話◇

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