「井戸茶碗は韓国で焼かれていない。日本の広島で焼かれていた」
という説を、加藤唐九郎や小林東五が発表されたことがある。
ある日、広島三次地方の土をみた唐九郎が、
「萩焼開祖の李勺光、李敬の兄弟が、萩の地に移るまでの十年間、安芸の国で注文品として焼いたのではないか」と提唱したのだ。
それまで大井戸のような独特の高台の陶片は韓国の地からは全く出土しないからであった。
関ヶ原の合戦(一六〇〇)で西軍の総大将格であった豊臣五大老の一人・毛利輝元は、
中国八ケ国の百二十万石から周防、長門の二国に領地を削減されて、
安芸の広島から三十二万石の長門の萩に入府したのは慶長八年(一六〇三)のことだった。
輝元は利休の茶の弟子であり、戦国大名の中でも屈指のやきもの好きな茶人として知られていた。
その輝元が高麗焼物細工累代家伝の秘法を持っていたといわれる朝鮮の名工・李勺光・李敬兄弟に、
「高麗茶碗に見紛う、化ける茶碗を‥‥」と命令した。いわゆる「萩の七変化」だ。
(今では、商人がいう「色が変化する」に使われるようになったが)
これにより、慶長九年(一六〇四)、萩城下松本中之倉に築窯を命じ、茶陶を主に焼かせた。
ところが、初期の古萩に井戸茶碗を彷彿とさせる茶碗は焼かれていないのだ。
もし、安芸の広島で焼いていたとするならば、そのまま萩でも同形の茶碗を焼いたはずである。
頭洞里古窯址から発掘された梅華皮のよくでた井戸茶碗の高台 高台径5.9㎝ 内径3.5㎝
陶芸家十五人と古窯址めぐりと食を楽しみに、
「鶏龍山と井戸茶碗の里を尋ねて」という窯址散策旅行をした時、
韓国慶尚南道河東(ハドン)郡辰橋面白蓮里の井戸郷(セミコル)などに行ってみた。
そこで見た茶碗の釉調は高台に梅華皮があり、井戸の雰囲気があるものの、
高台は大きく締まりのないものばかりだった。
日本には数多くの井戸茶碗が伝来しているのに、
韓国のどの美術館に一点もなく、ソウルや釜山の夥しい数の骨董屋さんにも陶片は皆無だった。
しかも、母なる韓国では、大井戸茶碗はどこで焼かれたか、その古窯址すら、
‥‥まったく謎に包まれていた。
井戸茶碗が焼かれていた頭洞里古窯址
慶尚南道山清(サンチョン)丹城面放牧里・陜川(ハプチョン)郡伽耶面、
そして鎮海市熊東面頭洞里などの古窯址から井戸茶碗らしい陶片が発見され、
2000年3月、鎮海市の金谷山で山口大学農学部の宇都宮宏氏が数個の井戸茶碗高台部分を採取された。
そして2001年4月月から韓国慶尚南道発展研究院歴史文化センターが調査を開始、
同9月、その発掘調査により、鎮海市熊東面頭洞里が、大井戸茶碗の産地であることが判明した。
2002年に本格的に発掘した結果、6基の窯址が確認された。
すでにこの地方は、刷毛目などの粉青沙器や白磁が李朝前期に焼かれていたとされ、
1997年1月、熊川古窯址(第160号)として慶尚南道地方記念物に指定されていたのだが。
金谷山の頭洞里窯古窯址から発掘された陶片の数々
井戸茶碗の古窯址は慶尚南道昌原市の鎮海(チンヘ)区にあった。
ここは古代には伽耶に属し、
李氏朝鮮時代には熊川(こもがい)県といわれたところだ。
咸鏡北道で焼かれたとされる「熊川茶碗」は、この熊川港から出荷されたからだといわれている。
十五世紀初めから十六世紀の中頃まで倭館が設置され、多くの日本人が居住していた。
熊川には文禄・慶長の役の時、朝鮮で作った最大規模の倭城址があるが、
その後、日本の統治時代、軍港として着目し、日本軍国旗を象った町が造られた。
さらに日本帝国のシンボルである桜が大量に植えられ、現在では桜の名所となっている。
発掘された井戸茶碗の高台
2009年の5月、その古窯址を訪ねる機会に恵まれた。
五月の連休中に、粉青沙器が焼かれた鶏龍山・務安・宝城・雲岱里(ウンデリ)・頭洞里などの古窯址を廻りたく、
事前にお願いしておいたのだ。
私のわがままを聞いていただき、5泊6日の旅、車で2000キロ走った。
目指すは、慶尚南道鎮海郡熊東面頭洞里の金谷山。金谷(キンコク)とは、昔は窯のあったところを意味する窯谷(ヨンコク)といったほど盛んに焼かれた所だった。
古窯址への案内は地元の陶芸家・崔熊鐸氏である。
このあたりで作陶する現代陶芸家は20人、その中で井戸茶碗に挑んでいるのは崔氏を含み6人だそうな。
崔氏の窯から宝賠山をはさんで反対側にある古窯址の山に差し掛かると通行者をチェックする人がいた。
とくに陶片が発見されてから、日本人には厳しくなったらしい。
近くの空き地に車を停め、獣道を歩くこと15分、上記の写真の場所に到着。
ここが頭洞里古窯址であった。
陶片がところどころに顔をのぞかせていた。
聞けば、大井戸茶碗が三島や刷毛目などの粉青沙器の層と同じところから、
その上に小井戸や青井戸茶碗などの陶片があり、その上に白磁の陶片の層があったという。
三島や黒釉の陶片もみえる
古窯は東西の傾斜10度から25度、全長24.5m、幅1.3~1.9m、6.7連房の半地上式登窯があり、
そしてもう一つ長さ6m、幅1.7mの小さな窯があったと報告されている。
案内してくださった崔氏のお宅にはこの近辺から発掘したおびただしい数の陶片がストックしてあった。
棚に無雑作においてあるものは、捨てられた陶片ゆえに生焼けの物も多く、小井戸か青井戸の高台のようだったが、しばらくすると、希少性のある陶片を入れた大きな桐箱を持って「特別に」といいながら見せていただいた。
伺った時に崔氏が発掘した陶片。濡れると枇杷色が鮮やかになる。
これらの陶片を師に、井戸茶碗の再現を試みておられた。
古陶片を見せながら、
「これは、私が作りました」と一つずつ、再現の結果をみせていただいた。
「喜左衛門」を目標に、「筒井筒」「加賀」「細川」「有楽」の名だたる大井戸茶碗や
「老僧」「柴田」「六地蔵」などの再現に挑まれている様子で、
それぞれその釉調はよく似ていた。
今まで会った井戸茶碗を制作する韓国のどの陶芸家より迫っているようにみえた。
ところが、手にとると、やはり茶碗のバランスが悪い。
韓国の現代陶芸家のみなに言えることなのだが、日本との生活様式の相違で、
致し方ないことなのかもしれないと思った。
井戸茶碗を焼くための登窯の前で、崔氏・田中先生と
現地から少し下ったところには来年春の開館に向けて、熊川陶磁器博物館(仮称)の建設計画の整地が進んでいた。
(古窯址は一時、埋められて、見学できるように整備された。
2011年11月23日、「熊川陶窯跡展示館」として開館、月曜日以外は無料観覧できる。
場所は慶尚南道昌原市鎮海郡頭洞路236)
※井戸茶碗の陶片などは筆者撮影
◇黒田草臣 四方山話◇
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‥‥陶のもたらす美‥‥
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