陶のもたらす美 Ⅶ ‥‥染付「ペルシャ発 シルクロード経由 景徳鎮行」


少し「染付」の誕生のことなど‥‥

 


ペルシャ発 シルクロード経由 景徳鎮行

ペルシャはむなしいほどの広漠たる砂漠の世界である。
砂また砂が何百キロと果てしなく続き、飛ぶ鳥さえいない。砂漠地帯で想像する以上に不足しているのが『水』、…その水を象徴するのは『青』‥‥さらに強烈な太陽のあとは、夕暮れの美しい夜空となる。
‥‥その深い青いキャンバスには想像を絶する満点の星があり、天空には神があるという。

画像人々はその理想の色『』を求め続けた。

古代西アジアで歴代の王妃の身を飾ったのは金とともに濃青色のラピスラズリーやトルコ石
「ラピス(lapis)」は、ラテン語で「石」を意味し、
「ラズリ(lazuli)」は、ペルシャ語で「青」や「空」を意味する。
これを砕いた粉末が日本画の絵具「濃青色」に使われている。


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ラピスラズリーと翡翠の原石染付や青磁色の原点
     

ラピスラズリーの主成分となるラズライトは「青金石」とも呼ばれる。
この青色の原因はラズライトに含まれるイオウによるもので、このイオウが多くなりすぎると鉄と結合し金色の黄鉄鉱(パイライト)となる。
これがラピスラズリにあらわれている美しい金色の結晶だという。

ラピスラズリーのような濃青色の陶器を焼きたい‥
ところが、ラピスラズリーやトルコ石を砕いて焼いても青色にならない。
その代用品として登場したのが、ペルシャのケムサールなどで採集された天然コバルトであった。

すでに紀元前千五百年代にエジプトの色ガラスにコバルトが着色剤として使われていたが、陶器としてはカスピ海南部のスルタナバードを中心に九世紀頃から天然コバルトを使用した白錫釉藍彩陶が生まれた。

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デルフト 藍彩草花文平鉢   これも白錫釉藍彩陶
           

十三世紀前半、中国で文治政治の南宋が衰退しはじめたころ、北アジアでは遊牧の大草原の国・モンゴル高原に異変が起こっていた。
あのチンギス・ハーンの出現である。
ペルシャでは十三紀中期、フラーグ汗がイル汗帝国を建設して文化復興に力を入れた。
小さな製陶地のスルタナバードには大窯業地カシャーンから移動してきた陶工も加わった。こうして代表的な製陶地となり、華麗な「染付」が焼かれるようになる。

いずれも赤褐色の陶器の素地に錫白化粧して、天然コバルト顔料で絵付し、透明釉を掛け1000度以下という低火度で焼いた釉下彩陶器だった。
一方、東アジアでは中国がいち早くコバルトを使用していた。紀元前七世紀にコバルトで発色した瑠璃珠を飾ることが流行しており、
すでに、幽玄で美しい青花への強い憧れを中国の歴史が物語っている。
唐時代には三彩の技術とともに西方の藍彩がもたらされ、
揚州にある唐代の城から青花焼成技術の資料が出土している。

さらに浙江省にある北宋代の塔の下から染付の陶片が見つかっていることから、越州窯や南宋官窯、そして龍泉窯など青磁で名高い浙江省にも染付を焼く窯が、遅くとも北宋代にはあったことを示し、唐白磁と玳玻盞天目の焼かれた吉州窯からも元代の染付陶片が出土している。
その中国を支配し世界史史上、最も大きな帝国をうちたてたモンゴルは自尊心と独立心の強い放牧民の帝国、…いわゆるモンゴル至上主義をとった。
それは西のペルシャ人やモンゴル人を身分の上位に占めさせ、中国の伝統を軽視し、宋代の漢民族の文化を嫌ったもので元代の陶磁器、とりわけ景徳鎮は低迷することとなった。

ようやく元代末期、シルクロードを経由してイスラムからもたらされた天然コバルト・回青(ホイチン)によって、景徳鎮磁器と染付の技術が出会い、 「青花(チンホア)」(染付)として完成する。(西のイスラム教は回教というので、天然コバルトは回青とも呼ばれた)


         


 元染付の完成
こうして「磁器に美しい紋様をつけたい」という陶工の憧れが叶ったばかりでなく、染付の完成がどれほど当時の人々を喜悦させ、興奮させ、美的感覚に陶酔させたことだろうか。
景徳鎮の染付は、きめ細かな混ざりけのない白磁の素地に、コバルトを用いて紋様を描き、透明釉を施して、千二百五十~千三百度で焼成した釉下彩の磁器である。
青磁や白磁、影青などの単色の陶磁器から、それまで予想だにしなかった白磁に鮮やかなコバルトの青い発色…。
これが「藍染」の色に似ていることから日本では『染付』と呼ぶようになるが、中国では『青花、青花白磁、白磁青花』といい、

朝鮮半島では「青華」、ベトナムでは「ホアラム」といわれ、英語では Blue and White と呼んで、青花磁器の名を世界にとどろかせていった。
その美しさ、明るさ、そして爽やかさが人々の心を魅了し、景徳鎮は宋代の影青(湖田窯などの青白磁)以来の活況を取り戻していった。
コバルトの顔料を太筆に含ませ、骨描の余白を濃塗しながら溜めていく‥‥焼くとコバルトに含まれている不純物の鉄、マンガンなどが褐色の斑点が生まれる。
これが染付作品をより重厚なものにしているようだ。
染付の不純物の斑点が、『元染付』の大きな特徴でもある。
これらの染付磁器を「大歓迎」した中近東・イスラム圏には大量に輸出された。
当時、大皿を中心に食事をする習慣(バイキング風)が中東にはあったので、注文で作ったのだろう。
誇張されその躍動感ある筆致の「元染付」は、それまで中国にはなかった幾層にも区切って草花などをめぐらすという迫力に満ち、
緊張感さえ漂う『染付』の誕生であった。

口径が四十五㎝以上の大皿は中国には僅か数点しかないが、その大部分が中東地区に収蔵されている。



北大路魯山人の使う唐呉須は古染付に使われる呉須とは異質。焼成方法や顔料の磨り加減により変化(窯変)し、古染付の美しい藍色に劣らぬ滋味と落ち着きを持たせている。 
魯山人は京窯(登窯)での染付の素地には京石といわれる天草産の陶石を使い、釉は柞灰を使った。登窯一の間で、ゼーゲル十一番(約千三百度)を倒したという。
染付の鮮やかな発色は柞灰や石灰を使った透明釉を施し、還元焼成することではじめて発色する。その様(さま)は、紺屋の藍甕の中に染物を入れると黒っぽく染まり、空気にふれる「風切」によって、藍色に変色する藍染の劇的な瞬間に似ている。
呉須は乳鉢で擦れば擦るほどきめ細かくなるが、ただの水を使わず、良くお茶を煮だして溶くと粘りが出て描きやすくなるという。
これによって、素焼の生地に描いた呉須は散り散りと滲んだりせず、陶工の意のままに描くことができるし、筆で描がいた表面をうっかり触っても、呉須が乱れたりしないというのだ。



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元の染付磁器は14世紀中頃に盛隆した。元を追いやった明代洪武期初期は染付の顔料が入らず釉裏紅が焼かれた。
その後、イスラム産の蘇痲離青(ソマリセイ)を輸入、余白の多い精巧な白磁に鮮やかな青藍色を発色させた宣徳官窯の染付は、現代の力強さから一転、穏やかな気品を持って成化年間ころまで続いた。
中国景徳鎮の染付技術がいち早く伝わったのは「安南」(ベトナム)であった。 14世紀後半頃と考えられている。
安南の「黎朝」や「莫年」の年紀をもつ染付磁器の存在があるからだ。
「龍」や「宝相華唐草」、「蔓唐草文」そして「蓮弁文」など元代の染付磁器に忠実に倣ってはじめられたが、15世紀に入ると独特の「安南絞り手」などとなった。


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日本では唐津焼を焼いていた多久高麗谷の陶工・李参平が、有田市泉山に良質の陶石を発見し、上白川山の天狗谷に、白磁を焼くため、開窯したという伝説がある。
元和二年(一六一六)のことだったという。
李参平は朝鮮忠清道金江の人。慶長の役で鍋島直茂に同行した多久長門守安順に連れてこられた陶工だった。
これが、有田焼の創業であり、その後、山間の寒村・有田の狭い盆地は、磁器の一大産地として変貌を遂げたのである。


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現在、手に入る呉須は旧呉須といえども、ほとんどが合成呉須だから、現代陶芸家は酸化コバルトにマンガン、弁柄、土などをサビ成分として調合して自分好みの呉須を作っている。

              
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「染付」への贈りもの‥‥ツリガネニンジン・露草・ブルーヘブン そして天空の撮影 Photo:Mr.M.Tujioka




  ◇黒田草臣 四方山話◇  

 ‥‥魯山人の美意識‥‥
‥‥陶のもたらす美‥‥  

やきもの散歩みち 「染付:長岡絢美展」 


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