唐津焼考③ ‥‥ 咸鏡北道から初期唐津

「お茶碗戦争」ともいわれた豊臣秀吉の朝鮮侵略‥‥「文禄慶長の役」  
その後、九州各地に陶磁器を焼く窯ができた。
これはなぜだろうか?
文禄以前に波多氏が保護奨励していた「唐津焼」が、すでに名作を作り出していたからだ、と考えている。33
朝鮮半島に出陣した多くの大名たちは、千利休所持の筒茶碗「子のこ餅」などの名碗が、
朝鮮陶工によってはじめられた唐津焼だったことから、自藩の産業に取り入れたかったに違いない。

文禄慶長の役以後、佐賀県を中心に焼かれた「古唐津」に対して、
その以前に焼かれた唐津焼を「初期唐津」と私は呼んでいる。
その初期唐津を誕生させたのは中国の江南地方という説もあるが、遺作をみれば中国鈞窯経由、
朝鮮半島の最北端に位置する朝鮮北方の咸鏡北道の陶工とみて間違いないだろう。
しかし日本にその技術が渡ってきた年代などが、確定出来ないことから多くの謎が残っている。

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初期唐津の斑唐津ぐい呑


鈞窯の陶工が咸鏡北道へ

咸鏡北道はその昔、かの広開土王(好太王)が活躍した高句麗の土地。
高句麗滅亡後、高句麗の後孫が建国した渤海(698-926)、ついで半農半猟の女真族・金に属した。

会寧が金朝に属していた頃、北宋に侵攻した金朝は鈞窯のある中国河南省禹県地方を支配していた。
金はその勢力が衰え始めると、鈞窯の陶工たちを金の本拠地のある満州黒龍江省に強制移住させた。

『中国陶磁史』李庸旭(韓國京畿大學校工藝教育學院院長)1993年(民国82年)

現在の中国黒竜江省は、金代には会寧県会寧州となって金朝の都城とされた。
豆満江の対岸は、北朝鮮咸鏡北道の会寧(フェリョン)である。
脱北者が多く、北朝鮮最大の強制収容所があるところだが、会寧焼が焼かれた白杏子の特産地。
この朝鮮半島と中国、ロシア連邦との国境をなす豆満江(中国では図們江)は朝鮮第3の大河(全長約520km)で、
白頭山の東部に源を発し、朝鮮半島の北東部を北東へ流れて日本海に注いでいる。
冬期は結氷して零下30度以下にもなるという。

鈞窯は官窯・哥窯・汝窯・定窯とともに中国宋時代の五名窯と謳われていた。
その鈞窯から移住したとされる陶工たちは、12世紀頃に金朝御用の器を作る為、その命に従い
白亜紀の花崗岩層の上に砂岩やカオリン質の蛙目粘土を見つけ、
咸鏡北道会寧、そして明川(ミョンチョン)郡上雩北面や
鏡城(キョンソン)郡朱南面七郷洞などに窯を築いた。
この会寧や明川、鏡城に窯を築いた陶工たちは鈞窯と同じ珪酸分の多い乳濁釉や
長石釉の甕や壺、片口、鉢皿類を、この地方に適した生活雑器を焼いた。


世宗と李朝陶

その後、金朝に支配されていた咸鏡北道は、新羅、高麗を経て、ようやく
李氏朝鮮四代国王・世宗時代(1418~1450)に朝鮮に取り戻されたところ。
世宗は豆満江を境界として開拓事業を行い、支配機構として四郡六鎮が置いた。
この世宗は韓国の紙幣の一万ウォン札の肖像にもつかわれ、李朝随一の名君と謳われている。
ハングル文字を制定した国王で、日本と勘合貿易を推進したが、
倭寇には悩まされて禁寇を請うほどだった。

画像
漢江市民公園・汝矣島にある世宗王銅像(Wikipedia)

この世宗の時、李朝の代表的なやきものが大きな転換期を迎えた。
白磁では上質な材料の供給を安定させるため地方に散らばる白磁窯を一つにまとめ、
国が管理する官窯である分院を設置して光州、河東、晋州、慶州、蔚山などの白土に
粘りのある粘土を混ぜ、本格的な白磁を焼くようになった。

画像白磁と染付陶片が埋まる分院白磁館(2005年撮影)
 
三島の印花技法のほか、鶏龍山を中心とした粉青沙器の胎土と釉薬は精選され、
彫花、剥地、鉄絵刷毛目などの技法も多様に用いられたその様式が発展したのも世宗年間である。
朝鮮半島では李朝の初期から三島、粉引そして井戸などの李朝陶焼かれたが、
咸鏡北道では依然として鈞窯に倣った乳濁釉する独自の陶器を焼いていた。

世宗は仏教を廃絶することにも力を入れ、儒教の「潔白」とか「清浄」を旨とした。
これにより陶工たちは賤民の中でも最も低い階級におかれ、
都市から離れた山村で集団生活していたが、一生妻帯することも困難な有様となった。
人々から粘土を寝かすことで「臭い」「汚い」と罵られ、
燃料の材木を切り倒すことで、「山荒らし」として嫌われたのだ。


咸鏡北道から唐津へ

こうした室町時代後期の16世紀、倭寇の松浦党は日本海に面した明川や鏡城、
もしくは東海岸を北上して日本海からロシアとの国境である豆満江を上って会寧川まで到達して、
会寧郡会寧面や雲頭面の陶工たちを連れ帰ったと考えられるのだ。

咸鏡北道には咸鏡炭田があり、会寧炭は朝鮮半島一の埋蔵量を誇り、
明川郡の褐炭は昭和になってから石炭液化用に最適と言われてきた。
一方、松浦地方にも唐津炭田があった。
杵島炭鉱(住友系杵島)、明治佐賀(明治鉱業)、三菱古賀山(三菱鉱業)は
戦後も年産50万トン以上を産出したという。
そのほか、相知、芳谷、小城、岩屋、北波多、岸山など唐津近郊に大小の炭鉱が分布していた。
そのためだろうか、
陶土となる砂岩やカオリン質の蛙目粘土などの咸鏡北道で使っていたと同じような粘土層が岸岳にもあった。

李朝では最も身分の低かった陶工達は寒さに耐えながらに生活雑器を細々と作っていたが、
彼ら朝鮮陶工の意のままに作陶する事を波多氏は保護奨励する。

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飯洞甕下窯址(2010・9撮影)


岸岳にて誕生した初期唐津

これによって最初、半地下式の単室穴窯(蛇窯)を皿屋、帆柱、飯洞甕などに築き、
さらに日本最古の登窯(無段・斜サマ・半地上割竹式)を、のちに有段式割竹式連房登窯を
花崗岩の切石を中心に耐火性の強い粘土を使って築窯したと思われる。

成形方法といえば
祖国と同じように茶碗や鉢、皿などを蹴り轆轤で成形する方法。
油徳利や小壺などはより紐を輪積して濡れた布を両手で水引する板起し方法をとった。
とくに寒い土地だったので、口が小さく胴を膨らませた算盤型の壺が生まれた。
火に掛けても耐えられるように高台脇から無釉である。
甕や徳利などは、より紐を積み上げて叩いていく叩き技法である。

帆柱窯の物原の下層から鈞窯の失透性乳青色の澱青釉に似た陶片や
紫色を呈した生焼けの陶片も出土している。
祖国咸鏡北道の窯と同じように珪酸分の多い灰釉や長石釉の壺、碗、皿、ぐい呑を主に焼成した。

当時、我が国では施釉陶器は瀬戸以外、中国、朝鮮から渡ってきた高価なものだったから、
はじめて釉下に絵が描かれた絵唐津など初期唐津は窯業史上、画期的な出来ごとだった。
何よりも、温暖で岸岳の素晴らしい陶土に出会った陶工の喜びが豪放な初期唐津を生んだのだろう。

文禄慶長の役以前に稼働したと思われるのは、
帆柱窯・皿屋上窯・岸岳皿屋窯・道納屋谷窯・大谷窯・平松窯・
飯胴甕上窯・下窯(慶長年間に再興したとも伝えられている)などの8古窯で、
ほかに最も李朝陶に近い硬質な絵唐津などを重ね焼で焼いた小十冠者(小次郎)窯では、
飯洞甕に似た釉薬(黄唐津)や高台削りされた絵唐津の皿類などが出土する。
そして「幻の名窯」といわれる初期の山瀬窯などがあげられる。




 
◇黒田草臣 四方山話◇  

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根来鎬大椀


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 Photo:Mr.Masami Tujioka

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