石黒宗麿…生涯一野人・京蛇ヶ谷への道

「やきものに精神を凝める(こめる)ことが念願だった」と語った石黒宗麿‥‥。
「再現」という古陶の模倣を嫌い、精神性の高い芸術作品を創り上げた。
手廻し轆轤から、昭和7年7月に蹴り轆轤、そして脚を痛めた晩年には電動轆轤を使いこなすその冴えわたる轆轤技術で、独創的な作品を遺していく。
戦後間もなく、柿釉などの洋食器を鋳込みで試みた。通常、石膏の合わせ型からはみ出たバリ(土屑)をきれいに拭うのだが、宗麿はそのまま残して制作した、これが返って洒落たものとなり、実用性や偶然性を否定したオブジェを創り上げ、陶芸界に革新的な造形分野「走泥社」を立ち上げた八木一夫も宗麿に倣って、鋳込みで制作している。
石黒宗麿の作品について、「古典というものを感じるより、むしろ現代そのものにも生きている感覚や瀟洒な好み、造りの確かさと柔軟性、そんなものに感心させられていた」と語っている。

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藍彩壺             柿天目やぶれ茶碗


のちの人間国宝・清水卯一ら多くの後進に影響を与えた胴の張った壷の造形に独特の口作り。
洒脱な筆の勢いそのままに躊躇しない絵付、抑揚をつけた轆轤目を残した茶碗。
苔寺(西芳寺)の粗い土を使った破れ茶碗。口作りや高台にもきちんとした美意識が感じられる。
また創りは穏やかだが、内面から湧き出る強い芸術性を秘めた作品。
どれもが石黒宗麿の創りだす作品の特徴を捉えている。
それは宋瓷のように研ぎ澄まされ、人を寄せ付けない完成度の高い作品ではなく、かといって民芸のような俗っぽさはない、観る人に語りかけてやまない詩的な造形のなかに気品と温かみを蓄えている。
座右の銘は荘子の斉物(せいぶつ)論。モノの価値は見かけ上のものにすぎず、自然にまかせる生き方を説いた「万物斉同」からの「栩々然」(くくぜん)から、昭和11年、八瀬に築窯してから「栩庵」・「栩翁」・「栩」・「栩園書屋」などと号し、高潔な文人精神を貫いていく。
 
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宗麿作  白地緑彩草虫文皿      魯山人作 於里辺ムシと草四方鉢


自然との融和を図った石黒宗麿は、自然美礼賛の北大路魯山人とは馬が合い、八瀬や山崎で顔真卿や中峰明本を語りあいながら、書を芸術の基本に、自然を愛し、画を描いた。
互いに生まれ故郷を離れ、どこかで名品をみて心を動かされれば、必ず作ってみる。こうして古美術の名品を師に努力を重ねて「木の葉天目」(宗麿)と「萌黄金襴手」(魯山人)などを本歌を超えて再現、また各々「チョーク描き」や「銀三彩」を創作するなど多種にわたる分野の作品を創った。
終の住まいは緑深い山々に囲まれた茅葺屋根。愛犬と遊び、スケッチブックを片手に四季の移ろいに筆を走らせるなどと共通点が多い。
没後、「不世出の天才」といわれた二人の芸術家は、ともに独立独歩の道を歩みながら、師をもたない自在な境地から‥‥時には自由奔放な作品や研ぎ澄まされた精神が宿る崇高な美を生みだした。
昭和34年12月、魯山人が亡くなった時、「逝去されたと聞いた時は、心の友を失ったと思い、淋しかった」と語っている。



京都精華大学の木村隆先生らによる
宗麿八瀬陶窯址の調査
(2013年に同行し、撮影させていただいた)
鋳込みの型を合わせてみる

八瀬の石黒宗麿邸は没後、
石黒宗麿所縁の陶芸家
清水卯一や木村盛伸らによって管理され、
平成15年(2003)より、京都精華大学が
基本財産を引き継いで管理している




石黒宗麿は明治26(1893)年4月14日に筏井みな(1876~1914)の長男として生まれた。荒川豊藏、金重陶陽、浜田庄司と同年配である。みなは、今でいう「シングルマザー」。父親は分からない。
明治28年2月22日、久々湊(のちの新湊市、現在の射水市)の石黒伯(1873~1933)と筏井みなとの結婚の届出がなされた。
石黒家は富山県射水郡作道村の旧家で豪農、大地主。21歳で医師資格を取得した伯は、日露戦争には軍医として従軍したが、富山県の西部にある射水市立町で「石黒医院」を開業し、白馬に跨って往診ていた美男子で,
骨董好だったといわれている。
この石黒伯の養嗣子となったのは、宗麿3歳1カ月の時(明治29年5月30日)だった。
そしてこの年の11月9日に、両親は早くも離婚、宗麿は実母「みな」と離れて暮らすようになった。



生母:筏井みな
(新湊市博物館開館記念図録より)


みなは高岡市の実業家・筏井甚造の四女。
甚蔵は数学の大家で、船による運送の激化により
北前船から中越汽船を興した富山県の有力者。




石黒家は江戸時代には100石ほどの土地を持つ豪農。村ではじめて電話がひけたほどの裕福な家の長男ゆえに、宗麿は「坊ちゃん」と呼ばれていた。
ところが母と別れて数年後、父・伯は東京出身の月形きよと再婚し、二女を設けた。
この継母と宗麿とは折り合いは良くなかったのは当然のことだろう。
こうした家庭への反発からだとも言われている事件が起こった。
県立富山中学校4年生の時、学内ストライキを首謀したとして止めに入った教師を殴ってしまい、退学させられてしまったのだ。腕っぷしが人一倍強く、「喧嘩太郎」「ライオン」などとあだ名をされるほどのキカン坊だった。
母方の筏井常之助のおかげで慶応義塾普通部に入学できたものの、遊んでばかりいて学校へ行かず、学費を滞納した。これを知った父親の伯は、怒り心頭だったのだろう、仕送りを止めた。中退した宗麿は転々と職をを変え、明治45年、常之助が社長をしていた中越汽船会社に一時、勤務したようだが、長続きはしなかった。
20歳の大正2年12月1日、金沢の大日本帝国陸軍野砲兵第九連隊に入隊。
勤務上等兵(伍長とも)として朝鮮半島羅南(今の北朝鮮咸鏡北道清津市)に駐屯中、上官を殴って、大正5年11月に除隊した。この兵役中の大正3年、生母みなは宗麿が朝鮮出征中の38歳で亡くなった。
終生母への追慕の念を抱きつづけていた宗麿には辛いことだっただろう。八瀬では仏壇に母の写真を飾っていたという。
除隊のち金沢駐屯地のある野田で、楽焼を見てから陶芸に興味を抱いた。新湊市久々湊の旧宅にあった父の道楽で作った窯で楽焼をはじめ、轆轤を覚えた。
心の慰めになったのかもしれない。小さい時から四季とともに変化する故郷の久々湊からみる立山を眺め、
「奈呉の江(久々湊)から見た、たち山(立山)が好きだった」と地元の人にもらしている。
この頃から漢詩や絵を独学で学び、鉱山に興味を持った。栃木などで鉱山の仕事をしながら、陶芸の釉石となる鉱石を探しに旅にもでた。

こうした中、両国河畔の旧中村楼にあった東京美術倶楽部で稲葉子爵旧蔵の曜変天目茶碗「稲葉天目」が、京橋の美術商中村作太郎によって16万7千円(大正7年3月)で落札されて話題となった。宗麿24歳のことだった。
このことが作陶を志すきっかけになったという。
「あまりにも豪華な、宝石をちりばめたような天目茶碗。‥‥僕は一生かかって曜変天目の色見をしていたようなものだ」と「月刊文化財」で述べている。その後、昭和の初めにアメリカ大使夫妻が、静嘉堂文庫へ行く車に便乗して再び観ることができたとも。
郷里をあとにして東京にでた宗麿は大正8年、慶応義塾に通っていたころに下宿していた本郷森川町の柳生館で投宿してのち、渋谷の松涛に住む伯父の筏井常之助の土地に窯を築いた。

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とう夫人(新湊市博物館開館記念図録より)
 

大正9年の秋、名古屋市の鶴屋の芸妓・岩佐とう((1898~1983 当時24歳)を見染めた。なんと身請けし、翌年4月、結婚することになった。ところが、その披露の席に警官が踏み込み、花婿の宗麿は検挙されて留置所へ。
その容疑は伯父常之助の山林を無断で売り払い身請け費用にあてたというのである。
面会に来たとう夫人を前に、
「私の一存でしたこと。この女には何の罪もありません。」と留置所の宗麿は、警察官に告げた。その態度が堂々として立派だったので、とうは添い遂げようと決意したという。
その後、夫人は、事件を報じた新聞の切り抜きを肌身離さず大切にしていた。

こうして二人は結婚して本郷森川から渋谷の松涛に窯を築いて移り住んだ。
大正11年、福島白河にも楽焼の窯を築いて半年ほど滞在し、その後、東京の青山、道玄坂、代々幡など新婚の夫婦は家賃が払えなくなったのだろうか、住いを転々とした。
大正十二年、渋谷代々幡(よよはた)で関東大震災にあい、世田谷に半年ほど引っ越してのち、陶磁器商・宮崎定次郎に勧められて霞ヶ浦近く埼玉県引企郡小川町の借家に住んで楽焼の窯を造り、小川町のシンボル的存在の笠山(標高837m)の名にあやかって「笠山焼」として販売。宮崎からの注文で、「石黒佛山陶像頒布会」と称し、近在の人々から注文をとった楽焼の肖像を制作。ほかに陶彫や「狸の手あぶり」などを作ったりしたが、それでも和服を包むタトウの紙縒り紐を作り手内職で飢えをしのぐほどだった。

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楽焼たぬき手あぶり(新湊博物館蔵)


大正12年11月に開通したばかりの東武東上本線小川町駅前の空地に敷いた筵に作品を並べて50銭で売った「のんきな父さん」という灰皿が売れるが、他のものは売れず、饅頭を仕入れて売って生計をたてていた。
それでも、35円の借金が払えず、困った宗麿は、とう夫人を新橋の芸者に出してしまった。
その時の客であった富山の田辺久松は借金を肩代わりし、夫人は一度も座敷には出ることなく、一週間で小川町の家に戻ることができたというが、宗麿にとっては、なんともハチャメチャな時代であったようだ。
田辺久松は宗麿の最初のパトロンといえるほど作品の頒布会などの世話をしてもらい、売れ残りは引き取るなど宗麿が世に認められるまでの最も早い時期の支援者であった。
大正14年、足かけ3年いた小川町を引き払って、富山市神通通りの売薬屋・田辺家に二、三ヶ月、寄寓し、立山を望める呉羽山の瓦屋で作陶した。

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呉羽山から富山市内、立山を望む


この年の12月、金沢郊外の法島へ移って二年ほど暮らした。田辺の住んでいる金沢市法島町に朝鮮半島出身者の東という人が掘建て小屋で暮らし、燐家の登窯を借りて伊賀・三島・刷毛目などの作品を大八車にのせて兼六園下の陶器店に持ち込んだが、まれに観光客が買っていく程度でさっぱり売れなかった。
犀川の河原にあった貸し別荘のような家に住んだのち、法島近郊の蛤坂に移り、金沢市野町の利岡光仙窯で小川町で発見した素材を使って斬新奇抜な作品を制作している。
大正15年(昭和元年)秋、妻のとうが発病して名古屋の実家を頼り、病院に入院。宗麿は半年を単身、金沢で過ごした。古道具屋が伊賀や備前、唐津などの壺や茶碗などの古い木箱を持参し、中身の偽物を作らされた。こうして作った茶碗が30銭、花入は50銭で道具屋に引き取られた。
「このままでは偽物作りになってしまう」と美術商たちとの腐れ縁を断ち切ることも考え、
「やきものの伝統ある場所で仕事をしなければ駄目だ」という田辺の助言を受けて、昭和3年、共同窯のある京都市今熊野日吉町の蛇ヶ谷に移った。

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石黒宗麿   干柿香合
蛇ヶ谷以前に手びねりで置物や陶像、、高さ3㎝ほどの「五百羅漢」などを制作していた。


参考文献:作品傳世 石黒宗麿(しぶや黒田陶苑)・月刊文化財(第一法規出版)・石黒宗麿 人と作品(朝日新聞社)・石黒宗麿図録(射水市新湊博物館)・石黒宗麿書簡集(射水市新湊博物館)・拙著「名匠と名品の陶芸史」(講談社メチエ)ほか、小野公久氏の評伝等を参考にさせていただきました。


魯卿あん (Rokeian)
〒104-0031東京都中央区京橋2-9-9 ☎& fax 03-6228-7704

赤絵水滴:宗麿画像筆置:魯山人

営業時間:月曜日から土曜日 11:00~18:00(日祭日休)




  ◇黒田草臣 四方山話◇  

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Photo:辻岡正美氏