藤原建‥‥自らを主張できる備前焼

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岡山県の備前に「ケンちゃん」、「建さん」の愛称で、愛陶家を唸らせた陶芸家がいた。
昭和の備前陶芸界を全盛に導びき、「備前一の窯焚だ」といわれた人こそ抜群の造型力を誇った藤原建である。
金重陶陽と北大路魯山人に師事したことで将来を嘱望され、備前の陶芸界で、「金重陶陽のあとを継ぐのは藤原建だ」という評判さえあった。

備前窯変花入画像


“備前中興の祖”といわれる金重陶陽の功績を顕彰して、日本工芸会中国支部では「金重陶陽賞」という特別な賞を設定した。これは陶芸、漆芸、木工、染織など活躍の目覚ましい工芸作家を対象とした賞であった。
昭和44年(1969)、第一回目の栄誉ある金重陶陽賞を受賞したのは藤原建である。
その後、昭和48年5月には岡山県重要無形文化財に指定されるなど備前の将来を担う第一人者となったが、心臓発作のため、53歳の若さで急逝された。
一般には一周忌といわれる黒住教の一年祭に、地元の医師・浦上新一郎や備前市議の樫本諭、そして友人などの呼びかけで、藤原建が築窯した大窯に隣接して記念碑が建てられた。
「作るんじゃない 生むのだッ」と時の黒住教教主・黒住宗晴が揮毫した碑である。

藤原建画像昭和42年


藤原建は大正13年7月12日、岡山県和気郡伊里村大字穂波526番地で農家を営む藤原静支の三男として生まれ、「健」と命名された。
昭和21年に復員後、叔父の藤原啓に、
「ブラブラしているのだったら、俺の窯を手伝わないか」といわれ、
備前焼の道に飛び込んだ。
本名の「健」から陶名を「建」としたのは叔父の藤原啓だった。

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刻印や箱書は藤原啓に倣った。


当時は備前焼暗黒の時代であった。
明治以降、衰退の一歩をたどり、備前中興の祖と仰がれる金重陶陽が”桃山陶への回帰”を唱えて茶陶を制作するものの、第二次大戦終結後、備前焼の窯元は約20軒前後となり、ほとんどの窯元が細々と型ぬきの安価な細工物のほか、水甕・擂鉢・火鉢などを焼いていた。(※備前焼全盛の平成12年(2000)頃には、600件の陶芸家を有し、その大半が茶陶を焼いていた。)

備前を離れ、絵を描き、バイオリンを弾き、小説や詩集(代表作『夕べの哀しみ)を東京で出していた藤原啓は、志半ばで、極度の神経衰弱になり、38歳で郷里の備前に帰って備前焼をはじめていた。
啓が建に声を掛けたのは素人から備前焼を始めて四、五年たったばかり
当然、啓の作品など売れる時代ではなかった。
啓は土代と割木代を払えず、集金人が来るとすぐ裏山に隠れた。
気が弱い性格の建だったが、啓に恥をかかせないように借金の断りを一手に引き受けた。

昭和21年9月、陶陽に師事するために訪ねた時、生まれてはじめて抹茶を飲んだ。
「縄の帯を締めて、梅干なめてもやる覚悟があるのか」といわれ、茶の味も苦く感じるほど建は緊張し、身が震える思いだったという。
備前最高峰の金重陶陽の作品でさえ裏庭に売れ残った作品が積み重ねられていた時代だったから不安な気持ちで一杯だったのだろう。
それでも言われるままに、陶陽や啓の窯焚きを無我夢中で手伝った。

昭和28年2月、北大路魯山人は鎌倉山崎の工房に備前窯を築窯することになった。
藤原建は陶陽とともに、備前から運んだ煉瓦で備前登窯を築きはじめた。
一月半ほどで完成して陶陽が備前に帰った後、この備前初窯での窯詰と窯焚きを魯山人から任されて無事に焼きあげた。とはいえ、一回ごとにくべる薪の量、最後の大くべや火を落とす時などは魯山人の勘が冴えた。
魯山人の備前窯第二回目の窯詰も藤原建が主力で手伝い、八月の窯出しまで約半年間滞窯している。
その間、魯山人邸に居住して務めあげた。

ある日、建が茶を入れるため、ヤカンを持った。
それをみた魯山人は、
「茶を注ぐヤカンを持つ時、男らしく把手をムンズとつかめ!」
いつも気にせずにやり過ごしていた建は吃驚した。
何気ない人の仕草にも気を配る魯山人の感性を学びとろうとした。
物事をとことん追及することと、魯山人の手早いタタラ作り、高台削り、
それらが料理を生かす器であることを学んだ。

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北大路魯山人の備前登窯


昭和30年、建は魯山人窯から帰ると「自らを主張する」という度胸が据わり、独立を決意。
備前市片上から日生に向かう県道から100メートルほど入った北側の山麓に、片上湾を見下ろすことができる所に登窯を築いた。
翌、32歳の昭和31年7月、初窯出しをし、その年から「現代陶芸展」に四年連続入選。
翌年には早くも岡山天満屋で初個展。その二年後、生活のめどができ、小林福次郎の長女・千栄子と結婚した。料理好きの立ち振る舞いの美しい奥様だった。
昭和42年4月に東京高島屋で「陶歴20周年記念展」を華々しく開催。
備前焼の「窯変と緋襷」という極端ともいえる窯詰と焼成に秀逸な腕前を発揮。造形においても新たな備前を切り開いたと感じた。この個展では緋色の美しい窯変と爽やかな緋襷、そして各種の胡麻作品が好評で、やきもの好きは深く凝視して、感嘆。しばらくは会場を去り難きを覚えるほどだった。

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藤原建   備前窯変花入


魯山人から料理を生かす器を学んだ建は日生へよく行った。小豆島に行けるヘリーの発着所でもある日生は瀬戸内海に面し、眼前には日生諸島が浮かび、多くの魚介類が毎日水揚げされていた。
建は市場近くの魚屋に「このアナゴは三センチほど大きすぎるから大味だろう」
「この鰆は少し旬を過ぎているから味が落ちるかも知れない」と魯山人直伝の薀蓄を述べたりしていた。
穂波の海の見える高台に新築したお宅に二度目に訪ねたとき、
日生から取り寄せた鮮魚を自作の皿鉢に盛り付けられ、それを摘まみにお気に入りの徳利とぐい呑で乾杯していただいた。
帰り際に
「次にまた備前に来るなら酒を呑めるようにしておけよ」といわれ、下戸だった私は苦笑いした思い出がある。萩ではお菓子とお薄。備前では当たり前の酒での歓迎。
金重陶陽同様、藤原建も話相手が呑まなければつまらぬのだと思った。
人が来れば、当然のごとく、相談なしの酒席となるほど酒をこよなく愛していた建は、徳利やぐい呑の気に入った形のものを一番よい窯の場所に窯詰めする。これも陶陽直伝である。
窯出のときには、一番に徳利とぐい呑を窯から取り出して助手とともにその作品で乾杯する。

こうした建は熱心な黒住教の信者だった。
自分の作った器に日生の魚を盛って教祖と酒を酌み交わし、千栄子夫人の作った岡山のバラ寿司を食すのを楽しみにしていた。バラ寿司は教祖の好物だった
黒住教教祖との交流から一度に一万個の作品が焼けるほど大きな窯(幅2,4m、高さ1,7m、全長23m。)を築窯することとなった。明治以来、登窯が主流の備前では直炎式大窯築窯は異例のことであった。この窯名を「天心窯」と黒住教教祖が命名して、分厚い松の一枚板に揮毫した。「天心」とは好き嫌いの無いことだという。
1970年に、「大窯初窯展」を岡山、東京、大阪で開催した。

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昭和45年、念願であった天心窯の火入式(黒住教HPより)


初窯ゆえに20日間の焼成と計算していったが、「炎の圧力で窯が持たぬ」と18日間で窯焚を終えた。長大な穴窯が煙突の役目をしたからである。桃山時代の土味を狙ったのだが、炎の強さが照りとなり、深味のある土味はわずかしか生まれてこなかったが、胡麻流れや緋襷などの景色を生んだ。
この窯で焼いた陶壁は岡山随一といわれた岡山国際ホテル一階正面右手の三角のタイル陶板を制作。また日生町の森下美術館(現・BIZEN中南米美術館)の外壁三百坪を飾った、二万五千枚の四角いタイル陶板。さらに備前市鶴海の視覚障害者老人ホームの入口を飾るタイル陶板などを制作した。
そして注目すべきは黒住教本殿の大屋根の瓦である。

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藤原建制作による備前焼瓦で葺かれた黒本教本殿


黒住教五代教主の注文で岡山市尾上の神道山の大教殿の千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)・棟瓦を制作するために、80トンの土を使い、2年以上も制作に費やして、この穴窯で焼いた。
風雪に耐えるよう閑谷学校の屋根瓦、児島の由加神社の備前焼鳥居などを調査し、綿密な計算がなされて挑んだのだ。
鰹木の両端をささえる直径90㎝の大作を轆轤で引き上げた。焼く前の生の時は120cm、焼成後は90cmの計算である。必要な数は18個だが、その3倍の数を作って備えた。乾燥でひび割れることや焼成で割れることを計算したのだが、無事に窯出されたのは、なんとギリギリの20個であった。

昭和49年10月27日の大教殿竣工、4月から板状の宮城県産の黒い玄昌石を18万枚、これを3枚葺きにして
葺かれた大屋根づくりに併せて、備前焼の千木鰹木棟瓦の取り付けが始まった。
建は毎日のように備前から駆けつけて取り付け作業を指導した。五代教主は亡くなってしまったが、翌年、緋色が美しい千木や鰹木が献納され、大教殿の大屋根に荘厳なる迫力をもたらした。

昭和48年(1973)に岡山県重要無形文化財に指定された。黒住教教主・黒住宗晴は、
藤原建「岡山県重要無形文化財指定記念展」に、
「建さんには土の匂いがします。今、田んぼから上がってきた農夫のような、おおらかさと、力強さがあります。あの子供のような笑顔とともに、ふと覗かせる寂しさは、建さんがまことの生き方をしているあかしのように思われます。 建さんには、母親が子供をだきしめたくなるようないじらしさと、子供が父親に頼りすがるような逞しさが同居しています。作者の魅力ある人となり、それがそのまま作品に出ているところが、建さんの素晴らしさでしょう。」と語った。

亡くなる3日前、建は神道山に行き、腕組みをしながら御屋根を眺め、五代教主のお墓へも六代教主・宗晴と一緒にお参りした。
昭和52年11月25日没。12月には「勲五等瑞宝章」を没後追贈された。



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辻岡正美氏