小山冨士夫 「粉吹茶碗」と「唐津皮鯨茶碗」

昭和3年5月のはじめのことである。
北大路魯山人は下関から関釜連絡船で釜山へ渡り、釜山から大邱、大田(テジョン)経由の鉄道で京城に夜行でやってきた。貴族院議長公爵徳川家達の書状をもって朝鮮総督府に立ち寄り、そこから護衛つきの車で一か月間、古窯址を巡り、鶏龍山の陶土や朝鮮カオリンの原料を求めにきたのだ。同行者は長男の櫻一、星岡窯を築窯した川島礼一、そして荒川豊藏など星岡窯のスタッフである。
着いたばかりの京城の駅頭で沢山の荷物を両脇におき、はみ出したシャツをズボンのベルトの下に押し込む男がいた。
前年の秋に続いて朝鮮半島の古窯址発掘調査にきていた小山冨士夫であった。
「ぼくは昨年の秋には慶州、金海、鶏龍山などの古窯址そして中国の奉天、北京でやきものをみてきました。今回もまた、古窯址を発掘しているが、そちらは豪遊ですね。ぼくは貧乏旅行だから駅のホームのベンチか野宿ばかり。でも慶州で別嬪さんに出会いましたよ」

小山冨士夫は陶友・石黒宗麿からの影響で、中国の宋瓷や唐津焼に傾倒していた。
宋瓷では磁州窯の白釉・宋赤絵・柿釉・油滴白覆輪・掻落などであり、
唐津では絵唐津をはじめ斑唐津、朝鮮唐津、蛇蝎唐津などを好んでいた。

皮鯨茶碗画像
唐津にて焼成した皮鯨茶碗でやや薄手で点てやすく、使い勝手の良い沓形の茶碗

画像高台わきに「古」のサイン


小山冨士夫作品には高麗茶碗といわれる朝鮮系は少ないが、粉引や刷毛目を作っている。
とくに粉引は好み、晩年には純白の粉引を好み、
素地の中にマンガンの粒子をいれて、化粧土を掛けて焼いた。
それゆえ粉引の中に黒い斑点が出た茶碗やぐい呑(酒觴)などが多い。
小山冨士夫は「粉引」を「粉吹」といった。
画像粉吹茶碗

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同・高台と見込
小山冨士夫は『古山子』と号していた。「小山氏」と人から言われたことからのシャレである。

『魯卿あん』では、普段、お客様にお茶をお出しする時、
これら古山子の茶碗を主に、魯山人先生・唐九郎先生などの茶碗でお薄をお点てしております。



魯卿あん (Rokeian)
〒104-0031東京都中央区京橋2-9-9 ☎& fax 03-6228-7704

定窯を発掘した翌年の昭和17年(1942)の初夏、福井県の越前に中世の古窯址が、それまでの「五古窯」以外にあると知った小山冨士夫は、その後の調査で、越前は六番目の日本中世の古窯として世に出し、「中世の六古窯」とされた。
この所縁の地にある福井陶芸館で『小山冨士夫展』が、8月30日まで開催されています。
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辻岡正美氏