黒田草臣

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zoom RSS 西岡小十‥‥小次郎窯と小十窯

<<   作成日時 : 2018/01/31 22:16   >>

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「古格を保った昔のままの土がいたる処にあります。心踊ります。明日から仕事にかかります。環境はよし、人情はよし、静かな中に清らかな高い響を周囲の風物から受けることができます。…中略…
(唐津焼を)土地の人さえ知りません。骨董屋店を見てもカケラさえ見当たりません。完全に滅びてしまって、ただ、各所に窯跡らしい丘に高台など見られるくらいのものです。宝のような原料がかくも無尽蔵に何処掘ってもあります。」と昭和十年三月に石黒宗麿は大原美術館の武内潔真に唐津の実情を手紙に書いている。
中里太郎右衛門のお茶碗窯は倒炎式の石炭窯だったので、「古唐津に迫るやきものを再現するには薪窯でなくては」という宗麿の提唱で登窯を築くなど、唐津の理解者である古館九一、高取九郎、金平京一らと唐津の復興について古館邸に集まって真剣に考えた。
ところが、陶芸家では魯山人、半泥子、唐九郎、土師萌ら、研究者や数寄者では金原陶片、水町和三郎、古館九一、佐藤進三、青山二郎、白洲正子、小林秀雄、立原正秋、川端康成などが古唐津に注目したものの、小山冨士夫の努力が実るまで当時の唐津焼作家は日の目を見ることはなかった。

こうした中、小山冨士夫は、「素朴で野武士のような唐津は日本の窯跡のなかでも最も心引かれるところ」と、魅力ある古唐津の再現を現代陶芸家の手でと熱望していた。


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西岡小十 斑唐津徳利


世間の名利私欲とは無縁‥‥ 
西岡小十は古唐津再興に邁進された陶芸家であった。
生涯、無冠‥‥これは小山冨士夫の助言によるものである。

小十は永年発掘された古陶片に囲まれて作陶するまさに“陶三昧”の生活‥‥
斑唐津や朝鮮唐津はもちろんのこと、絵斑唐津、梅華皮唐津など古唐津のすべてを本格的に再現されたことで、その後の唐津陶芸界にとって高い指針となったのはいうまでもない。

はじめてお会いしたのは唐津衣干山の頂に築窯されて4年後の1975年春であった。
笑顔で出迎えてくれた西岡小十は温厚そのものの。その後、長きにわたって親しくさせていただいた。

その偉業を返りみる時、小十が唯一の師と仰ぐ小山冨士夫とのご縁を思わざるをえない。
「唐津のことなら知り尽くしている古唐津の神様」といい、
古唐津を手にすれば即座に小十に見せて古窯址を特定されていたのが懐かしく思い出されるからだ。


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1987年、古希の小十先生と   軸「小十窯」は荒川豊藏先生の揮毫




       唯一の師・小山冨士夫  
     

『やきもの賛歌 陶芸家小山冨士夫』を陶芸雑誌の特集に組んだほど世界の陶磁史のみならず日本陶芸界に多大な影響を与え、自らも自由奔放な作品を創りあげた小山は昭和四九年、『歴史の手帳』で「柿右衛門や色鍋島よりは備前や唐津が好きだった」と語っている。
それは技巧を優先する装飾的なものより、素朴で自由な作風を好んだからだろう。また多くの著書を残しているが、中でも『骨董百話』に西岡小十のことを「唐津焼発掘の名人で唐津の窯跡をこの人ぐらい知りつくしている人はいない」と紹介している。

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小次郎窯初期の頃に焼かれた「朝鮮唐津茶碗」‥‥へたっている


荒川豊藏が大萱牟田洞の古窯址から「筍の絵」志野筒茶碗の陶片を発見した昭和五年(一九三〇)、唐津でも現・毎日新聞社第五代社長の本山彦一は社員の中から有田出身の大宅経三に命じて、古窯址を発掘調査させた。
その後、「唐津焼再興の父」ともいえる古舘九一や金原陶片をはじめ、北大路魯山人、小山冨士夫、石黒宗麿、川喜田半泥子、加藤唐九郎、中里太郎右衛門(無庵)、加藤土師萌などがそれぞれの研究のために唐津の美と技法を求めて発掘調査していく。

一九一七年(大正六)生れの西岡小十(本名・悟)は唐津中学から高校を経て関西大学卒業後、商社に就職したが、兵役に就き、満州にて野砲部隊に従軍し、二年後、終戦を迎えて帰国して後、生命保険会社に勤務され五年後、唐津に帰郷した。
一九五〇年、やきもの好きの友人に誘われて唐津の古窯址「帆柱窯」に行った時、斑唐津の陶片の美しさに心奪われ、三年後から毎日のように古窯址に出かけた。丁度、十二代太郎衛門(無庵)が無津呂姓から中里姓に改姓したころであった。
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焼山の絵唐津  極めは西岡小十


発掘陶片を骨董屋へ持ち込んでは生活費に充てられていた西岡小十‥‥
「何か掘ってこんと喰えんでしょう。楽しみや遊びではなく生きるための発掘ですよ。陶片を掘って来なくては帰れないから真剣だった」
ある日、小十窯でお薄をいただきながらその時のことをお聞きしたことがある。
この古窯址発掘をきっかけとして、1960年、文化財調査官の小山冨士夫と面識を得た。
この年、永仁の壺事件で文化財保護委員会事務局を退職した小山は1963年、出光美術館の顧問に呼ばれ、古舘九一の蒐集した古陶片を礎に出光美術館の古陶片所蔵の充実をはかった。66年からは鎌倉二階堂の自宅で本格的に陶芸家の道を歩みだし、美濃・備前・信楽・萩など全国の陶芸家と交流をもつようになり、中でも「唐津は最も心惹かれるところ」といい、唐津の太郎右衛門窯でも作陶された。
早くから唐津古窯址を発掘調査していた小山と西岡の話がはずみ、西岡の集めた陶片を出光美術館で発表しようと蒐集された中から二十数点を譲った。
その頃から西岡小十は発掘に携わるだけでなく、発掘した陶片のように崇高な唐津を再現したいという気持ちをもつようになり、小山に相談を持ちかけた。
「それを待っていたんじゃ」と小山は目を輝かせて喜んでくれた。
こうして唯一人、師と仰ぐ小山の援助もあり、1971年、古唐津再現を目指し唐津の衣干山の麓に割竹式登窯を築窯した。西岡小十はすでに54歳となっていた。
唐津古窯址は二百を数えるが、中でも最も北部にある小十官者窯は文禄慶長以前に稼動した初期唐津で唐津市梨川内に三基あり、現在は孟宗竹に覆われている。唐津特有の土肌とは違い、硬く焼き締まった磁器質の素地に無地唐津や鉄絵が施された絵唐津などが焼かれていた。小十官者窯は別名を「小十窯」「小次郎窯」といい、これにあやかり、小山は西岡の陶名を『小十』、窯の名を『小次郎窯』と命名した。

古窯址発掘の経験から築窯のための傾斜、構造、さらに物原にあった窯道具などを特定して築窯した小次郎窯での作陶だったが、粘土の採集や制作、築窯、窯焚などの心労がたたり、大病し一年間の入院を余儀なくされた。
小十の初個展が開催されたのは1975年のことである。自ら集められた古唐津の陶片を陳列した「古唐津陶片展」と併設の初個展を姫路のデパートにて開催した。この時、偶然、荒川豊蔵が見に来て、帰り際に茶碗を求めてくれたことが、大きな励みになったという。


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当苑での個展会場入口の棚:カレンダーに載せた小十先生の茶碗12点



           絵斑唐津と梅華皮唐津

たしか昭和44年のことであった。鎌倉二階堂の小山邸をお訪ねた時、二階の応接間でお酒をいただきながら石黒宗麿の思い出話から唐津の話になり、古唐津の陶片を持ち出された。
その伸びやかな絵、ざっぐりとした土味、そして潔い高台削りが好きで長い間、小山の話を夢中で聞いていた。
と同時に、私は現代の唐津焼には魅力を感じることができないことをお話させていただいた。
「…‥‥ならば西岡さんの所へ行ってくれ。長い間、古窯発掘で古陶片を見て来たからこの頃の唐津焼に物足りなさを感じて数年前、窯を築き、本気で古唐津を追っているから」と紹介してくれたのだ。
作者に無性に会いたくなり、すぐにお伺いした。
二十年間、古窯址を徹底的に発掘した先生から多くの陶片を見せていただき、貴重な陶片を分けていただいたりもした。
その三年後の1978年、先生は唐津岸岳系・山瀬下窯で斑唐津に絵が描かれている珍しい陶片を数点、発見された。
「おそらく一、二回の焼成で当時の陶工が難しくてあきらめてしまった『絵斑唐津』です」といわれ、この幻のやきものの再現に着手した。
藁灰釉である斑唐津は火の強い火前で焼成するが、火に弱い鉄絵は流れ易いため、せっかくの絵も溶けてしまう。しかし、数十回の挑戦の結果、岸岳の土を使って、斑の中から滲んだ鉄絵がのぞく美しい絵斑唐津を、81年に完成させ、茶碗を中心にぐい呑や鉢などの食器に至るまで制作された。
画像絵斑唐津皿五客
絵唐津大皿(梅華皮)画像径:34.5cm

或る日、陶工二人を引率して長崎と佐賀の県境近くの平戸系唐津の古窯址を発掘されていた。
その五日目、「それまでただ力強い壺しか見るものがなかった」といわれる牛石窯近くの畠の中からほとんど無傷の黒唐津沓茶碗を掘り出した。そして夕方、連れのM氏が皮鯨の奥高麗風茶碗を掘り出し興奮して西岡を呼んだ。
西岡はこびりついた土を谷川の水で洗うと細かい梅華皮が現れ、その窯変のすばらしさに感動し、足元が濡れるのにも気づかなかったという。
そして幾多の失敗の末、1985年、ねらい通りの高温に耐えた深みのある『梅華皮唐津』を再現させた。
「あの美しい梅華皮の茶碗に産湯をつかわせたときの感激は、あの豊蔵先生が竹の子の茶碗の陶片を発見し、古陶の再現にのめりこんでいったときの心境を、今はじめて共有できた気がした。帰りの車中その再現に努めようと決心し、ようやく牛石の陶土を使って再現することができた」と、「梅華皮再現」のことを「竹屋」の二階で鰻を頬張りながら語ってくれた思い出がある。

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小次郎窯の窯出し



   荒川豊藏と藤原啓との交流がもたらしたもの

備前などの焼締陶と同様に唐津は匣鉢に入れず、むき出しで焼成するから強烈な炎が降りかかる。
そんな勢いを感じる作品を私は小十先生に求めた。伺う度に、
「なおしてありますよ。黒田さん好みのを……」といいながら笑顔で、仕事場の奥から窯変の利いた作品を差し出され、美智子夫人は箪笥の中から梅華皮茶碗など取出してくれた。

こうして親しくさせていただいている間も、先生は古唐津の再現とそれに甘んじない創意工夫を試みた。
尊敬する美濃の荒川豊藏と備前の藤原啓という陶芸界の巨匠が来窯され、大きな影響を受けられた先生は豊蔵から日本的な温か味、啓からは窯変の利いた焼きを知った。
中里無庵が重要無形文化財技術保持者に認定された一九七六年、荒川豊藏が来窯し、作陶もされた。李朝の陶技である唐津焼に豊藏張りの包み込む茶碗の造形と口作り、そして志野のような温か味のある釉調を西岡はとり入れたのだ。
「唐津を熟知している西岡には何も言うことがないと、荒川さんが言っていたよ」と小山から聞いたのはその頃である。一九八一年、小次郎窯の奥に自作を多く焼くために小さめの登窯を築き、『小十窯』とした。名づけ親は豊藏である。
古山子・啓・小十の合作画像

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小山冨士夫作 絵唐津茶碗 藤原啓の書「和敬」 小十窯焼成


さらに一九八〇年には藤原啓が来窯した。
啓は硬い備前焼を志野のように柔らか味を出すことに腐心され、「西岡の唐津はいい」と話されていたが、啓は小山、荒川両先生と親しくされていたからだ。
備前の登窯の素穴に作品を入れて焼成する自然桟切技法を取り入れ、登窯の温座に作品を置くようになり、片身変わりの窯変を焼成されるようになったことだ。
柔らかさだけではない。桃の川内の土を探された西岡は、
「桃川には古窯址はないのだけど、初期の唐津は堅手ものもあった」と梨川内の小十官者窯の李朝の堅手を思わせる素地と似ているこの土を使われ、固く焼き締まった絵唐津の作品を発表された。
扇子画像
「これ喰って 茶のみたい」 平成6年(1994)7月 小十


晩年の一九九九年には唐津から逃れるように石川県能美市辰口町に加賀唐津辰之口窯を開窯された。
「唐津の土に似ている」といわれ、『加賀唐津』と名づけ、京都野村美術館にて「加賀唐津初窯展」開催した。
「一度、加賀の窯へおいでよ。いい温泉があるから」と先生からお誘いを受けたが、伺えなかったのははなはだ心残りである。
数十万点の陶片に触れて古唐津再現にかけ、伝世品にない梅華皮唐津や絵斑唐津を復元し、唐津再興の祖といえる西岡小十が一切の公募展に出品されず、終始、無冠でいつづけたのは、小山冨士夫の進言でもあり、自らの信念でもあった。「芸術は一代限り」といわれる小山の言葉。その為か、小十の「土と炎」にかける仕事ぶりも、そして小次郎窯も小十窯もその仕事場も継承されていないのは甚だ残念である。

いつもサンダルをお履きになり、笑顔で出迎えてくれた西岡小十‥‥
2006年の正月、日本橋三越での新作展でお元気なご様子だったが、8月30日に89才の天寿を全うされ逝去された。肝臓がんであった。
最後まで茶碗作りにこだわりながら鬼籍に入られた。
天国で小山冨士夫、荒川豊蔵、藤原啓などと再会され、あのにこやかな笑顔で共に手を取りあっておられるだろうか。                   --西岡小十追悼文--撮影:筆者

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懐かしき しぶや黒田陶苑での一コマ



魯山人「大雅堂」・「美食倶楽部」発祥の地

 魯卿あん‥‥Rokeian
〒104-0031 東京都中央区京橋2-9-9    TEL: 03-6228-7704 FAX: 03-6228-7704
営業時間:11:00〜18:00
 Email:rokeian-kuroda@jupiter.ocn.ne.jp
『天下松風一碗中』画像西岡小十書

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 辻岡正美様の撮影





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