砧青磁・飛青磁・天龍寺青磁・七官青磁を焼いた龍泉窯・そして官窯「楓洞岩窯」

福建省との境にほど近い浙江省龍泉市内から眺める山々は素晴らしいの稜線である なんと標高1000m以上の山が800以上あり、市内の大部分(70%)は山地で占めているというのだ 古越磁や越州窯、南宋官窯などそのいたるところに青磁の古窯址がみられ、 なかでも浙江省西南部に位置する「龍泉窯」は、中国最大の『青磁』産地である 龍泉窯発掘「青磁」陶片 竜泉窯の西側は「天目」の項で紹介した福建省武夷山風景旅游区に接している 「龍泉青瓷博物館」によると、青磁の最盛期の北宋、南宋時代の龍泉窯一帯の住民は2~3万人 その60%およそ1万5千人前後の人々が陶工として従事していたという 龍泉大窯 竜泉大窯は北宋時代中期までは浙江省東北部の上虞、慈渓などの越州窯の影響を受け、浙江省南部の温州市永嘉県などの甌窯、浙江中部の金華市の婺州窯などの影響をうけて同じような形の製品を作っていたが、釉調が灰色や灰白色の淡青釉の初期龍泉窯の特徴をもった五本の口を付けた多嘴瓶(五穀倉)や罌(おう・盤口瓶)などの明器が焼かれ、砧青磁などが焼かれた南宋代に飛躍的に質料ともに最も発展した青磁窯である 「萬声」や「馬蝗絆」などの名高い『砧青磁』は、きめの細かい胎土で薄く成形された「薄胎厚釉」(はくたいこうゆう)という空色を呈する粉青色釉青磁、美しい風格のある青磁だ 日本の国宝となっている『飛青磁花入』(大阪市東洋陶磁美術館蔵)は元代(1271~1368)に焼かれた 元代か…

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山田山庵‥‥松永耳庵を瞠目させる

並外れた才能、それを自由気儘に発揮し、展観する度に数寄者を驚愕させたほどの腕前であった 楽茶碗の名手・山田山庵先生……  85歳となられた平成3年に、ご自身が選びぬいた作品集『自撰 楽茶碗 山田山庵』を出版され、巻頭に挨拶文に載せている。 「昭和十年の春だったと思いますが、商用で名古屋へ行っているうちに、ちょいちょい立ち寄っていた骨董屋さんに、中村道年さんという楽焼の作家がおります、いってみませんかと誘われて八事の道年さん所へ伺ったのが、私と楽焼との運命的な出合いだったのでしょう。 土から茶碗になる道程に強い魅力を感じ、以来家族のものからは気違いに近いとと言われ乍らも夢中で作りつづけてすでに五十余年が経ちました。」と、楽茶碗造りをされる経緯を語られている。 この度、その作品集の中から楽茶碗のみの逸品38点をご遺族のご厚意で一堂に展示させていただきます。 山庵先生は昭和9年、初代の中村道年先生から土を譲り受けて長次郎茶碗を手本に楽茶碗の手造りを始められた。もとより古美術の蒐集家でもあられる山庵先生は茶道具を商う「山惣」を創業し、のちに裏千家老分となるほど茶の湯に深く拘(かか)わっていかれた。 赤楽茶碗吹雪 光悦黒茶碗「くいちがゐ」を所蔵するなどまれにみる目利きである、 「長次郎には低火度の美はあっても、よく溶けた美を発見できず」と、 奔放な茶碗を創り出す光悦に私淑し、艶ややかな黒楽と赤楽の釉肌に執着され、心の赴くままに変化を持たせた創作の世界にのめり込んだ。 それは土の塊を球…

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浜本洋好…初期の『斑唐津』に惚れた‥‥

陶芸の原点は「迫力ある原始的なもの」だと、売名行為を図ることをよしとしない浜本洋好先生。 15年間、唐津焼の窯元で修業されているが、30歳の頃、初期唐津の深遠な斑唐津に惚れて、岸岳周辺の古窯址を入念に発掘調査された。ここで唐津焼に適した粘土を掘って窯元へ売って独立資金を稼がれた。 頑固一徹な信念を曲げることなく清貧を苦にせず、豊かな陶土の岸岳に対座してこの道を歩む独立を決心された。 窯焚を待つ間、ひっそりと佇む浜本洋好先生の割竹連房式登窯 桃山陶の中でも初期の斑唐津の深遠さは他を圧する。そこには透明感があり、深味がある。 土と釉と炎をみごとに融合させているからだろう。 岸岳の土を調べる 先生はその本歌を手本に“土と炎”を相手にする陶匠だから、力仕事と藁灰つくりなど根のいる窯仕事は人任せにせず、すべて独りでされている。 浜本洋好 斑唐津茶碗 土は岸岳周辺の粘土を徹底的に調査され、耐火度のある砂気の多い土を、土木建築や農業に携わる方々からあらゆる情報を得て探しあてた。少ない時でも2トン車5台から、良い土が出れば4トン車に10台の粘土を借金してでも手に入れる執念をみせた。 そのほとんどが「斑唐津」に適した粘土で、そのほか絵唐津に適した武雄の白土や朝鮮唐津に適した藤の川内古窯址にあった鉄分の多い粘土も掘った。 割竹式連房登窯胴木の間から 窯は35年前に岸岳の麓に割竹式連房登窯を築いた。 現在の唐津焼では唯一の本格的な割竹式連房登窯である。 初期唐津で使われ…

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〝用の美〟の探究者 北大路魯山人

唯一無二の芸術家 北大路魯山人  路地の落葉や濡石の具合を確かめ、水の打ち加減から箒の用い方まで一つだって疎かにしない。 四季をいち早く感じ取り、蓮の露の一滴、葉に隠れる虫の音をこのうえなく愛しく思っていた人だった。 その細やかで清新な感性をもって、いつまでも色褪せない根源的な芸術を考究していた北大路魯山人は 他の追従を許さぬ創意工夫を凝らしていた‥‥ 茶道雑誌(河原書店)9月号表紙 「北大路魯山人の特集」で監修、執筆させていただきました。ご笑読いただければ幸いです。   カラーグラビアP5~P20  色絵双魚文皿染付葡萄絵鉢 それぞれ世田谷美術館と足立美術館藏の作品 於り辺長板鉢北村美術館藏 あたりが暗くなりはじめた頃、松林の住処に いそぎ帰る鳥の群れを捉えた ‥‥北村美術館所蔵の織部俎板鉢の名品 本文唯一無二の芸術家 魯山人 ‥‥ 特定の師を持たなかった魯山人は、自然美と古美術品を師としたのであろう、 四季の変化に情緒をかたむけながら、妥協しない真の芸術を考究する…。 「少しずつでも古人の心が読めて来ると実にうれしい。それというのは、自分も古人のように、心で仕事をしてみ たいと思うからである。心あっての形である」 と、こんこんと湧き出ずる当意即妙で、底知れぬ芸術性を世に送りだした。 「感激が傑作を作る」と自己の心を固く信じ、とらわれぬ、生命感溢れる創造力と慈愛によって創りだされた作品そのものが〝自然美〟だと、明確に実証してくれた。…

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三輪和彦‥‥「エル・キャプタン」

鮮烈な感性に会話が広がる三輪和彦先生の白萩 三輪家の家伝によれば「永正年間(1504~20)、大和の国三輪の里の住人・源太左衛門を祖先とする」という。 元禄十五年(1700)藩命により京へ上り、楽一入と交流を図って楽焼を習得し、その後、四代休雪も修業のため京都へ上り、高麗茶碗に包み込む和風化を取り入れて三輪家の礎を築いた。 不走庵 三輪窯 三輪和彦先生は 「物心ついた頃から十代休雪(休和)の仕事振りを見ていた。昔は家族総出で色々の仕事をやっていた。休和の両の掌の中の土が生命を帯びたモノに変って行く様を思い出す」と言っている。 休和先生は明治期より苦境に立たされていた萩焼を見事に立て直され、古萩にはみられない独特の存在感を示した造形力とともに『白萩』を創始し、茶陶そして鑑賞陶芸としての萩焼の地位を高められた “萩焼中興の祖”であった。 さらにご尊父の十一代休雪(壽雪)先生は、轆轤に頼っていた花入や水指、喰籠などを土の塊から刳貫いて制作された。また「これぞ鬼萩というのをやってみよう」と、萩の荒々しい土を使った「鬼萩茶碗」を圧倒的な存在感で創りあげ、ご兄弟で重要無形文化財(人間国宝)となられている。 三輪和彦先生白萩の釉掛け 和彦先生中学一年の夏休み、京橋にあった東京近代美術館で開催されていた「現代国際陶芸展」(1964年)で観たピーター・ヴォーコス(1924– 2002)の白い皿に圧倒されたという。 ヴォーコスはアメリカ現代陶芸の旗手、陶芸の常識を覆すダ…

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茶の湯…茶碗の参考書……やっぱり、名碗

「目の眼」という月刊誌にある 骨董入門のコーナーで、「入門者向けに茶碗の参考書になる本を…」ということで拙文を、、、 古美術商のすすめる参考書 ……やっぱり、名碗 「目の眼」七月号 通巻490号 今年は茶碗の展示会が続いている。 国立近代美術館での「茶碗の中の宇宙 一子相伝の芸術」という利休の愛した楽茶碗の世界を企画展示、さらに東京国立博物館での特別展「茶の湯」では、国宝の「油滴天目」、「喜左衛門」、「卯花墻」、そして重要文化財の「馬蝗絆」「柴田」「無一物」「時雨」など唐物・高麗・和物から選ばれた天下の名碗。 武将や茶人などが愛し、人をつき動かすパワーを持っていた「名碗」‥‥ それは口造り、見込、高台はもとより、立ち上がる轆轤の伸び、腰の力など見どころ満載。 加えて魅力ある胎土やその削りの味、深味ある釉などを愛でる。 おいしくお茶を飲める名碗はどれも気品を備え、喫するほどに新たな感動を与えてくれたのだろう。 「大正名器鑑」(全九編) “茶碗の入門書”ということで、はじめて広く知られるようになったのは、大正十年から昭和元年にかけて高橋箒庵(義雄)によって編纂刊行された「大正名器鑑」(全九編)であろう。茶入などともに六編から九編までは茶碗の名品が写真撮影されている。 「茶碗」(平凡社)木の葉天目の項 平凡社刊行の「茶碗」は昭和四一年から四三年に全五巻が1200部発行された大型本。 監修者:小山冨士夫 ほかに満岡忠成、長谷部楽爾、佐藤雅彦、藤岡了一、林…

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天目茶碗は北宋の徽宗皇帝によって‥‥木村盛康「傘寿」

なぜ、「建窯」は天目茶碗の故郷なのでしょう‥‥ 中国福建省建陽県水吉鎮周辺にある水吉窯・芦花坪窯・大路后門山窯・長乾窯・源頭坑窯・牛皮崙窯跡などが建窯の総称でその総面積は12万平方メートルという広大さの中に百を越える巨大な龍窯がありました。 なかでも大路后門山窯の龍窯は135,6メートルという長大なものでした。ここにはほかに晩唐、五代に使われた青磁窯2基、元代の青白磁窯1基が確認されています。 8年ほど前に訪ねた時にはそれを物語るように天目の陶片の他に青磁の陶片も見つけることができました。また同安窯で焼かれたような「珠光青磁茶碗」を思わすような猫描き手の陶片もありました。 遇林亭古窯址龍窯 青磁を焼いていた窯が黒釉の天目茶碗を焼くようになったのは、五代から宋代にかけて興った抹茶(碾茶)の流行でした。 それまで喫茶用の茶碗として使われていたのは越州窯で8世紀の唐代から焼かれた『青磁』と刑州窯で焼かれた『白磁』が主流で、透明の茶には「青磁や白磁」の碗が美味しそうにみえて似合ったからでしょう。 宋代になると上流階層では泡立った不透明な緑の抹茶をきわだだせるために黒釉の『天目茶碗』が流行してきました。手にもっても天目茶碗は熱くならないなどと歓迎されたのです。 奨励したのが北宋の第8代皇帝の徽宗です。 「美味なるモノ、美しいもの」を大切に風雅の道を説いた文人皇帝。茶が美しく映える天目の「兎毫盞」(禾目天目)を愛しました徽宗が著した『大観茶論』には、「盞色貴青黒、玉毫条達物為上」…

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田中佐次郎‥‥芯に一本、強い我を秘めている

一握りの土塊が人の心により森羅万象を刻み、あらゆる感情を包蔵するものが、陶芸だと思い知らされたのは、35年前のことである。唐津市半田にある常楽寺の境内に登窯を築かれていた田中佐次郎先生(当時45歳)の陶房を訪ねた時からであった。 数年後、“幻の名窯”と謳われた山深き山瀬に半地下式15連房窯を築かれた。 さらには唐津のルーツでもある韓国の嶺南(ヨンナム)アルプスの麓に半地上式六連房の登窯を築き、 精魂を傾けた高麗茶碗をより純度高く再現されている。 先生にとって、土選びと炎への執念は“終世の命”である。 その火と土、そして清冽な山瀬の湧水との結合を求めて遮二無二(シャニムニ)、まさに狂人の如く追及して止まるところがない。その恐るべき土への執念をもって、古唐津の名窯岸岳や山瀬、牛石などの土、さらに朝鮮半島を巡って探し求めた土は1000種類を超えた。 斑唐津や朝鮮唐津、絵唐津はいうまでもなく、独自に謳いあげる「青霄(セイショウ)」、「辰砂耀変」「朱砂天目(シュシャテンモク)」「毘沙唐津」「玄黄(ゲンオウ)」「黒刷毛目」さらに「朱雲(シュウン)」「雲霄(ウンショウ)」など、 清新な作風に、心高き鑑賞者たちが惜しみない拍手を送っている稀にみる本格陶匠である。 孤高独自の節を曲げない田中先生の繰り出す爽清の陶技は観る者の心魂に響き、貴重な芸術家として後世に語り継がれるに違いないと信じるものである。 平成二十九年四月二十二日              黒田草臣 (福岡岩田屋三越…

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連休明けの『魯卿あん』の室礼……

連休明けの『魯卿あん』‥‥ 北大路魯山人 於里遍カゴメ花入 軸装:菖蒲 花:蛍袋とリョウブ 北大路魯山人書「陶」 伊賀花入  花:山芍薬・令法・矢筈ススキ 加藤唐九郎 唐津茶碗   菓子:大宰府梅園 『宝満山』 魯山人「大雅堂」・「美食倶楽部」発祥の地  魯卿あん‥‥Rokeian 〒104-0031 東京都中央区京橋2-9-9    TEL: 03-6228-7704 FAX: 03-6228-7704 営業時間:11:00~18:00 Email:rokeian-kuroda@jupiter.ocn.ne.jp 黒田草臣 BLOGはこちら しぶや黒田陶苑のホームページに戻る   辻岡正美様の撮影

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ヨモギ蕎麦、そして有平糖で一服

今年もヨモギが道端に生えてきました。 新芽を積んで湯がき、純白の更科粉に打ち込みました。 変り蕎麦の中では、「ヨモギ蕎麦」が一番好きです。 ヨモギ蕎麦 お客様用のヨモギ蕎麦黒田泰蔵の白瓷高台皿に盛り付けてみました。蕎麦猪口は古伊万里です。 有平糖で一服 「有平糖(アルヘイとう、ありへいとう)とは、砂糖を煮て作られた飴の一種であり、南蛮菓子の一つである。金平糖と共に、日本に初めて輸入されたハードキャンディとされている。阿留平糖、金花糖、氷糸糖、窩糸糖とも呼ばれる。」とあります。京都の小さなお菓子屋さんで作られた有平糖をいただきましたので、自然坊の斑唐津茶碗で一服です。 魯山人「大雅堂」・「美食倶楽部」発祥の地  魯卿あん‥‥Rokeian 〒104-0031 東京都中央区京橋2-9-9    TEL: 03-6228-7704 FAX: 03-6228-7704 営業時間:11:00~18:00 Email:rokeian-kuroda@jupiter.ocn.ne.jp 黒田草臣 BLOGはこちら しぶや黒田陶苑のホームページに戻る   辻岡正美様の撮影

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唐津 丸田宗彦…独立築窯三十周年記念展

丸田宗彦 … 開窯三十周年によせて  開窯されて30周年を迎える丸田宗彦の生まれ故郷は民芸陶の里・黒牟田である。 ご祖父は、昭和四年から黒牟田焼の再興に力を注いだ丸田寅馬(明治三十四年生)。 そのあとを継いだのはご尊父の丸田正美(大正十四年生)である。 昭和十七年、佐賀県立有田工業高校窯業科を卒業してのち、昭和二十五年、益子の濱田庄司に師事して、わずか二か月ながら民芸陶の力を熱心に学び取られた。黒牟田の伝統技法に、益子で会得した塩釉などを個性豊かに加味して民芸陶黒牟田焼を確立されて日本工芸会正会員となられ『九州民芸陶の雄』といわれた方である。 得意の塩釉の鉄砂呉須のほか、鉄絵を施した藁灰釉や黒流描文、刷毛目、辰砂、伊羅保釉などで扁壺や大鉢を作られていたが、昭和五十四年十二月に五十四歳の若さで亡くなられた。 正美の次男・丸田宗彦が高校三年生の時であった。翌年、宗彦は高校を卒業後、ご尊父の逝去の悲しみを抱きながら陶芸家を目指し、一人険しい道を選んで栃木県の益子へ。バナード・リーチ工房で修業された浜田庄司の三男・濱田篤哉に四年間も師事され、見聞を広めてきた。 子供の頃から裏山の雑木林にある古窯址の物原が遊び場だった。 そこには、桃山時代から江戸時代に朝鮮陶工の帰化人が窯煙をあげた錆谷や山崎など古唐津の陶片がザクザクあったという。 益子から黒牟田に帰った宗彦は、手始めに古窯址を巡って良土を探し歩いた。二年後、結婚と同時に古唐津再現を目指して武雄に三袋の登窯「内田皿屋…

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『大藝術家 北大路魯山人展』 … 魯卿あん

ここ東京京橋も2020年に向けて再開発が進み高層ビルの建設ラッシュです。 昨秋、32階建て 1フロア820坪のエドグランが京橋駅に隣接して完成しました。 それでも 魯卿あんがございます東仲通りは静かな街並です。 今年も4月14日(金)-15日(土)に 『数寄です、美術の街 東京 アート アンティ-ク』が日本橋・京橋を中心に開催されます。 こちら魯卿あん では 2017年4月10日(月) より22日(土) まで 『大藝術家 北大路魯山人展』を開催させていただきます。 ぜひお出かけいただき、ご高覧くださいませ。 むさしの鉢 『大藝術家 北大路魯山人展』図録文 北大路魯山人先生が「魯卿」と名乗り始めたのは、大正5年(1916)の33歳になった時です。 岡本可亭の書生となって以来、唐代の「顔真卿」(顔魯公) に傾倒しておりました。 「魯」とは愚か、大ざっぱで間が抜けていること。その「魯の字が好きだよ」と『魯卿』と名乗っています。 翌年には、神田駿河台のシンボルでもあるニコライ堂(東京復活大聖堂教会)の鐘の音が心地よく聴こえる紅梅町の借家に「古美術鑑定所」の看板を掲げて、書と篆刻の仕事もしておりました。 鎌倉に越したのは大正7年のことです。アジサイ寺といわれる明月院の門前にあった高梨家を借りました。谷川に架かる石橋を渡った茅葺き屋根の田舎家と納屋のような小屋があり、ここに「北大路魯卿」の表札をかけました。 夏になると好物のスイカを谷(ヤツ)で冷やし、家…

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金重素山 ‥‥ 火水土のご恩

「耀盌」と呼ばれる独創的な楽茶碗を最晩年に創り出した出口王仁三郎(1871~1948)は、 昭和23年1月、天界へと旅立った。 出口王仁三郎 耀盌 明治25年(1892)に綾部で開教した宗教法人「大本教」は開祖・出口なおを初代教祖に、書をはじめ、陶芸、織物、能楽など芸術を大事にしていたが、 王仁三郎の没後2年を経て、その遺志を継承して妻・すみ子(二代教主)、その長女・直日(三代教主)や五女尚江、そして現在の五代教主出口 紅(くれない)へと継承されていった。 直日に初めて陶芸の手ほどきをしたのは金重陶陽である。 手ひねりのぐい呑100点を作って窯(瑞月窯)と作業場も整えられ、陶芸への本格的な歩みが始まった。 その翌年には京都の清水にあった本格的な登窯を陶芸家の宇野三吾から寄贈されて、亀岡の「天恩郷」に築かれた。「花明山(かめやま)窯芸道場」という名の作陶場も開設され、花明山窯築窯当初から今熊野蛇ヶ谷に住んでいた石黒宗麿が指導にやって来ており、石黒宗麿が轆轤を教えるなどした。石黒は鉄釉陶器や磁州窯の白化粧、赤絵、呉須絵、練込手など、さらに李朝系や唐津風の焼物などを指導しているが、これによって陶陽や素山の作風にも影響を与えた。 花明山窯  練込水指 こうして金重陶陽はじめ、金重素山・宇野三吾・北大路魯山人・荒川豊藏・河井寛次郎・小山冨士夫・加藤唐九郎など日本の陶芸界を代表する作家が数多く集まるようになり、陶芸文化サロンとなった。 金重家は大本教を…

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藤原雄 ‥‥器の中に“間”とか“遊び”

備前の伊部駅から瀬戸内海に沿って日生に向かうと片上湾が見えてくる。 海側にある耐火煉瓦や炉材の工場に遮られてしまうが、 その反対方向の急坂を上り詰めると藤原啓記念館と雄工房がある。 天気のよい日は豪壮な藤原邸の応接間から瀬戸内海に浮かぶ小島と穏やかな入り江が望め美しい。 藤原雄 備前窯変擂座花入 藤原雄は魯山人ばりの美食家であった。 明治大学の日本文学科に通われていた頃、岡山の陶芸通に紹介されて鎌倉の魯山人のところを訪ねた。 その初対面の日に、「また一人で飯でも食べに来いよ」といわれ、毎週土曜日に出かけ、月曜日に下宿に帰ってくる学生生活を三年間続けた。 「魯山人先生には日本的感性とか、美意識とか、風情、人生を粋に生きるというか、モノを上手に活かしていくことなど陶芸の哲学を学んだ。なにしろ先生の影響を受けたものだから知らず知らずに食いしん坊になった」 と料理の名店や寿司屋、そして魚市場などへもご一緒されたほど魯山人に可愛がられた。 「料理を手伝いながら、器と料理の調和を言葉ではなく厳しい修業として味合わせていただいた。私の生涯に二度とない素晴らしさをもたらしてくれた魯山人先生に感謝しながら日夜、器造りに精進している」 藤原 雄 明治大学卒業後、文学が好きで一時、出版社に勤めていたが、昭和三十年、父・啓が胃潰瘍で倒れ、父の体を案じて帰郷し助手となる。その後、アメリカなどに行って改めて故郷の焼物・備前の土の良さを認識し本格的に陶芸の道に入っている。 「父の助…

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山本陶秀 ‥‥ 轆轤にかけた陶芸人生

明治39年、備前市伊部に生まれた山本陶秀は、燐家の金重利陶苑で職人たちが轆轤で制作するのに憧れ、大正10年に陶芸界に入った。 選んだ修業先は備前で一番大きい窯元だった黄薇堂で、入門した当日に轆轤台に座り、たちまち湯呑を十個、挽きあげたという。 昭和13年、京都の日本芸術院会員・楠部弥弌に師事し、14年には中国四国連合工芸展で優良賞を受賞したのを皮切りに轆轤一筋に精進されて戦中戦後の苦しい時代をのり越えていく。 昭和34年にはブラッセル万国博に出品した緋襷大鉢がグランプリ金賞を受賞するなど内外に認められ陶芸作家として地位を固め、昭和62年には、国の重要無形文化財保持者(人間国宝)となり、永年の苦労が報われた。 山本陶秀肩衝茶入 陶秀の繊細なろくろで造る茶入は気品に溢れ、日本伝統工芸展では毎年のように、大物に挟まれて小さな茶入が堂々と出品されていた。 山陽新幹線が岡山まで開通したのは昭和47年3月である。と同時に空前の備前焼ブームの幕開けである。 新幹線の騒音をまともに受けることになる陶秀宅は、防音装置を施した鉄筋コンクリートの自宅と工房に改築することにした。ところが旧宅の跡地には手榴弾が埋まっていた。 戦時中、金属物資が不足して軍の命令により一八軒あったという備前窯元は手榴弾を作らされた。ほとんどの窯元は型で作ったが、轆轤名人といわれる陶秀は灯火管制の元、轆轤で制作した。 改築の際、この手榴弾が全て掘りおこされ、 「備前陶工は兵器を作らされた時代もあった。二度とこんな…

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藤原啓  ‥‥ 陶酔 無心 夢

藤原啓ぐい呑と徳利 JR赤穂線伊里駅の近くの工房から瀬戸内海の片上湾が臨める陶芸家として絶好の地へ‥‥ ここに藤原啓親子が窯や工房を新設された50年ほど前、まだ新築の香りが残る真新しい和室に通された。 私は床の間の棚に飾ってある片口鉢が気になった。 どっしりとした高台から穏やかに立ち上がり、厚みが一cmほどある口縁には溝がめぐらされた啓独特の作り。全体に淡いカセ胡麻が掛かり、腰と見込に目が覚めるような緋牡丹があった。それまでの固い備前焼の観念を覆す穏やかな創りと優しさを感じとった。 そんな私を見て、「ええ、焼けじゃろ‥‥これが『赤窯変』じゃ。‥‥狙っておるが、なかなか取れん」。 この時、『赤窯変』とは造語なのだろうか、初めて聞いた。 藤原啓大徳利千鳥が天に舞うように自身のサインが彫られている。  魯山人はイサム・ノグチを連れて備前にきた昭和27年、陶陽窯へ集まってきた多くの陶芸家の前で、 「古備前は無釉の陶器のなかで群を抜いて美しいね。…なのに、伊部の街を歩いてみて感じたのだが、君たちは伝統のなかに居眠りをしているのではないかな。‥‥こんなに良い土があるのに、もったいないことだ」 といい、土を菊練しながら、「君たちに素人でもできるいい方法を教えるよ」と、その土の塊を掌でとんとんと叩き広げて、 「この日本一の陶土を活かすには、ざっくり作った陶板が一番だ」 と箆などの道具を一切使わず手早く四方平鉢を仕上げた。 魯山人四方平鉢 その後の備前では器を好んで作る…

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金重陶陽は「備前の生き神様」そして「備前焼中興の祖」

1967(昭和 42 )年の春、一人の青年が金重陶陽と金重道明の門をたたき、中庭の見える居間に通された。 昼寝をしていた金重陶陽が、作務衣に着替えて現れた。 「やきものは教えられるものではなく、自らが感じ とらねばならない。 作品は生れてくるものだから、 本人の人間性を高くしなければ良い作品は生まれて こない」 と、正座して 30 分ほど説教された。  金重陶陽当苑「からひね会展」より すでに 60 年近くも陶業に携わってきた陶陽だった。そこで悟ったのは、 「内 面からの美しさは“土・焼・造”が大切」 という陶芸家としての基本であった。 明治以来、土管や土産物だけに頼っていた備前焼の土の作り方、窯の構造や焚き方、窯詰の仕方も大幅 に変えた。こうして存亡の危機を見事に払拭して救世主となって“備前の生き神様”と言われ、小山冨士夫には〝備前焼中興の祖”と讃えられたのだった。 江戸時代から小奇麗な伊部手の細工物を生業とした陶家に生まれた陶陽は鳥類の細工物を得意としていた。 細工物は型に粘土を入れて作られるが、型抜きした後の技術が問われる仕事である。 得意の鳩や雄鶏などの鳥類は型抜きの後、箆や竹串を使って羽毛を一本一本ずつ精緻に彫り上げた。 乾燥を一定させるため、粘土に砂糖を混ぜた。その潮解性により、乾燥時のひび割れや剥離を起こすのを防いで、羽毛の線がくっきり出すことができた。 細かな手加減で操作するため、必ず繻子の布団を敷き、その上に作品をのせて細工し、デコ師とし…

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現代備前の礎を築いた陶芸家たち

旧山陽道沿いに発展した備前の街を、はじめて訪ねた昭和42年の冬のことで、もう50年前になる。 煙突や松割木の山が妙に目立ったものの、伊部の街はひっそりとしたやきものの里にみえた。 この伊部の小さな街をくまなく巡っても窯元の数は二、三十軒ほどで、陶工たちは寒さにて耐えながら土を足で踏んで粘土をこさえ、薪を割っていた。 備前の街に佇む古備前の大甕 経済復興の波に乗って、昭和47年には東京と岡山間を新幹線が開通し、施釉陶だけでなく焼締陶の備前焼にもブームが到来し、赤煉瓦造りの煙突が雨後の竹の子のようにふえてきた。 無釉焼締の素朴な備前焼が忘れかけていた枯淡を愛する人々の琴線に触れたからであろうか。 土管や耐火煉瓦の製造を余儀なくされ苦難の道を歩んでいた備前焼を破格ある芸術作品に引き上げたのは、備前焼中興の祖・金重陶陽であった。その陶陽なくして現代の備前を語ることはできないが、今一人、現代備前焼に貢献した芸術家が北大路魯山人であった。 北大路魯山人作 備前四方鉢揃 美に対してあくなき探求心と温故知新の精神で人の心を打ち、気品ある芸術作品を生み出していた魯山人は、 「無釉の陶器のなかで群を抜いて備前は美しいね。何といっても土そのものに変化があり、味わいがある。土と火との微妙な関連によって渋い奥行きのある色が出るなど世界に類をみないよ」 と昭和27年にイサム・ノグチを連れて備前へやってきた。これを知った備前の陶芸家の多くが陶陽窯に集まってきた。金重七郎左衛門(素山)、藤原啓…

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井戸茶碗が焼かれた 熊川陶窯址

「一井戸茶碗 是れ天下一の高麗茶碗 山上宗二見出して、名物二十、関白様に在り」と、『山上宗二記』に記され、あらゆる茶碗の王座を占めてきた井戸茶碗。 慶尚南道昌原(チャンオン)市鎮海(チネヘ)区‥‥ ここは朝鮮半島の古代には「伽耶」に属し、李氏朝鮮時代には熊川(こもがい)県といわれたところ。 熊川茶碗は、古くは「カカンド」とか「カカント手」ともいわれていることからも、現在の北朝鮮・咸鏡北道で焼かれたと思われる。細かい貫入が琵琶色の上釉に映える。鎮海区の熊川港から出荷されたから熊川茶碗というのであろう。熊川茶碗の特長はやや端反りの口縁、立上りは丸く膨らんだ椀形、見込に鏡、そして多くは土見せの高台で竹節を呈している.朝鮮半島南部で焼かれたと思われる高台まで釉掛けしたものもあり、土も多様だが、熊川港のあった鎮海区付近では焼かれていない。 熊川には十五世紀初めから十六世紀の中頃まで倭館が設置され、多くの日本人が居住していた。 文禄・慶長の役の時、秀吉軍が朝鮮で作った最大規模の倭城址があるが、 その後、日本の統治時代には軍港として着目し、日本軍国旗を象った町が造られた。 さらに日本帝国のシンボルである桜が大量に植えられ、現在では桜の名所となっている。 重ね焼きの高台(熊川陶窯址展示館) 鎮海市熊東面頭洞里〈現在は昌原(チャンオン)市鎮海(チネ)区鎮東面(チントンミョン)熊川(ウンチョン)頭洞里(トドンリ)〉の古窯址からプンチョン(刷毛目や三島)やペクチャ(白磁)などの陶片が発…

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井戸茶碗が焼かれたという井戸郷セミゴル[白蓮里]

毎年のように行っていた韓国古窯址散策は、「魯卿あん」の開店、そして韓国での「MERSコロナウイルス」流行があり、6年ぶりとなった。 今回は成田から釜山に入って河東、晋州、熊川、蔚山などの古窯址を巡る3泊4日の旅である。 平地でもマイナス10度ほどの寒い時、「しばらくは雪が降らない」ということで韓国行きをきめた。 ところが、春節の影響で釜山までの搭乗機はほぼ韓国の人で満席。釜山につくと人も多くて慌ただしい。 30分ほど探して、迎えに来られた田中佐次郎先生と丁さんをようやく合流できた。 丁さんの車に乗り込み晋州方面へ。 20数年前、「井戸郷・セミゴル」が井戸茶碗の里ということで、十数人の親しい陶芸家とともに張今貞(チャン・ケウムジュン)さん宅へ伺ったが、佐次郎先生が初めてということで、この度の再訪問となった。 ソウルでホテル暮しをされている張さんが、丁さんの呼びかけでタクシーで駆けつけてくれた。 張今貞邸内にある「河東無名陶工追念碑」 現在は慶尚南道河東(ハドン)郡辰橋面(チンキョミョン)の白蓮里(ペクリョンリ)窯という。 慶尚南道泗川(サチョン)でお生れの張さんは李朝の井戸茶碗を目指して再興するための陶房、住居、ギャラリーがあったところだ。 張今貞さんと ここ白蓮里セミゴルで出土される器の種類は粉青、白磁、象嵌白磁などの平鉢、皿、丼、甕、大徳利、水筒、杯など生活用雑器を焼いた所と思われる。 20数年前に伺った時には、傾斜のある庭に井戸風の陶片が散…

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