1929大聖寺『魯山人陶磁器大展觀』 そして長流亭

「徳川家に謀反の意がない‥‥」と、 築城や軍備拡張という武治の加賀藩を文化の加賀藩に政策転換をさせたのは加賀藩三代藩主・前田利常と五代藩主・綱紀である。 蒔絵、彫金などの工芸、お茶などを奨励し、京都から裏千家の千叟宗室を招き、同道した土師長左衛門を大樋村で楽焼を開窯させて初代大樋長左衛門とし、能登の穴水中居で鋳物業を営んでいた宮崎義一を茶釜造りとして指導させて、藩の御用釜師「宮崎寒雉」と名のらせた。また金工師の後藤顕乗と従弟の後藤覚乗、蒔絵師の五十嵐道甫や清水九兵衛など一流の名工たちを京都から高禄で召し抱えるなど、加賀文化の礎を作っていく。  とくに藩の殖産政策として陶磁器に目をつけたのは加賀前田藩の支藩である大聖寺藩の初代藩主・前田利治。利常の三男で元和4年(1618)金沢生まれ、母は将軍秀忠の次女・珠姫である。寛永16年(1639)22才の時、大聖寺7万石の藩主となった利治は小堀遠州に師事して茶道を好み、楽焼を楽しんだりしている。新田や鉱山の開発を奨励していたことで、領内に金山銀山を発見し、偶然にもこの鉱山開発中に良質の陶石が発見したという。 魯山人所蔵の「古九谷赤繪小皿」(星岡29号) 利治はこれを機に九谷鉱山で錬金の仕事に従事していた後藤才次郎定次を陶業技術の修得のために肥前有田に派遣させ、製陶技術を取得させた。帰藩後、才次郎は田村権左右衛門らを指導して、江沼郡九谷村に窯を築いた。こうして「色絵磁器」(古九谷)の生産を完成させたとされている。 大聖寺の料亭 …

続きを読む

1929年の魯山人‥‥金澤美術倶楽部個展

昭和四年(1929)はウオール街の株価大暴落で世界大恐慌が勃発し、各地で労働争議が激しかった年。 日本では文化財の保存と活用を目的とした「国宝保存法」が施行され、宝物類3705件、建造物845件が国宝に指定されている。また大阪では日本初のターミナルデパート・阪急百貨店が開店し、東京上野では関東大震災で焼けた跡地に、地上8階、地下1階のルネサンス様式として新装開店、13万人もの人々が殺到したと伝えられている。 この昭和四年、魯山人は四月だけで北陸方面で五回という個展を精力的に行った。 会場は大正二年から四年までの食客時代に多くのことを学んだ長浜から金沢へとたどった逆コースだが、無名だった魯山人の天分を開花させてくれた細野燕臺や窪田朴了、河路豊吉らと旧交を温め、また恩返しも兼ねての開催となった。 皮切りは「魯山人藝術」最大の理解者・細野燕臺の食客となった金沢である。 百万石の城下町として栄えたこの町は、今も古い伝統が残っており、明治維新では官軍にも徳川方にもつかず、中立を貫いた。維新に大きな功績もなく、爵位も公爵ではなく一ランク下の侯爵だった。しかし維新後も資産があった金沢は古美術品が東京、大阪に次ぐといわれてきた。じっさい茶人や数寄者も多く、尾張町の銘菓「長生殿」で知られる森下八左衛門、そして細野燕臺が双璧だといわれていた。 細野燕臺 燕臺(細野申三)は金沢を代表する作家である泉鏡花や徳田秋声とは幼馴染み、セメント業と清国磁器雑貨商「細野屋」を経営する実業家の傍ら、陽明学の大家で、…

続きを読む

星岡窯(ほしがおかがま)を築いて爛熟期に向かう…魯山人

一木一草をも崇め寄り添い、美しいものに支えられている魯山人の姿を見て来た私には、残された作品に潜んでいる生命感あふれる創造力が、人を気持ちよく引き寄せて行くのではないかと思える。 篆刻や書道の名手と謳われ、美食倶楽部を設立するほどの料理道の達人といわれるようになった大正時代末、止めどなく湧きでる芸術性を創出するために鎌倉山崎に「魯山人窯芸研究所」を立ち上げた。 まさに星岡茶寮の開店や終の住いとなる慶雲閣を移築するなど忙しいさなかであった。 移築した頃の慶雲閣 魯山人没して57年‥‥、関心度も年々高まりをみせ、没後も各地で魯山人展が開催されている。 その図録などに記載されている年譜を補足すれば、昭和時代だけで個展の数は八十回超えていた。 この激動の昭和時代、陶芸家の個展などはマスコミには無視されがちだったが、魯山人の個展情報は多くの新聞雑誌で取り上げられている。なかでも朝日新聞の服部蒼外、中外商業新報(現在の日本経済新聞)の外狩素心庵、毎夕新聞の田沢田軒は好意的だった。 大正時代、大雅堂美術店の二階で「美食倶楽部」を興し、それが軌道にのると古陶磁の器だけでは足りなくなり、山代の菁華窯で制作し数窯焼いた。ところが関東大震災によって「大雅堂」と「美食倶楽部」が焼失してしまい、倶楽部会員のためにもせめて料理屋だけはと芝公園で「花の茶屋」を開店させ、のちに星岡茶寮を主導することになる。 器への必然性を、より感じたのだろう、京都の宮永東山や河村蜻山、三浦竹泉窯で青磁や万暦赤絵、染付、刷…

続きを読む

小山冨士夫‥‥離れ技の「種子島焼」誕生秘話

少しでも古陶磁や陶芸に関心を持つ人なら小山冨士夫の名を知らぬ人はいないだろう。 東洋陶磁学会委員長、日本工芸会理事長、日本陶磁協会常任理事などの役職のほか、出光美術館をはじめ、本間美術館、佐野美術館の理事。そして五島美術館、松永記念館、根津美術館、畠山記念館の顧問や評議員をつとめながら、世界を駆け巡り、多くの古窯址を発掘調査され、陶磁器学者の権威といわれた。 古陶磁学者の第一人者だが、日本陶芸界の発展にも尽くした。 「私はどんな人でもその人の良いところしか見ないことにしている」と気さくで誰とでも分け隔てなく接する「陶と人」を愛した巨星であった。 明治三十三年(一九〇〇)三月、父親は善太郎、母親は幾無(きむ)の七人兄弟の長男として岡山県浅口郡玉島町(現・倉敷市)に生れた。父は「岡山特産・花筵」を輸出する貿易商、祖父はギリシャ正教徒である。 プロテスタントと敬虔なキリスト教徒であった父・善太郎は病気になり、指圧で快復すると本業を捨て指圧師になった。そんな父が富士登山した後に生まれたので「冨士夫」と命名された。ちなみに弟・濠一はオーストラリヤに旅行中に生れたという。 種子島銅鑼鉢 陶芸家として専念されたのは鎌倉二階堂の自宅に「永福窯」を築いた昭和41年の66歳のときだった。 昭和44年、台湾の故宮博物院に招かれて、「日本にある中国陶磁」について講演することとなった小山は、その途中、沖縄那覇の「壺屋やむちん」の里に立ち寄り、初めて沖縄で作陶されている。 壺屋には釉薬の掛かった上焼(ジ…

続きを読む

周茂叔『愛蓮図手付鉢』‥‥魯山人旧藏

鎌倉山崎にあった『慶雲閣』‥‥ 神奈川県文化財となっていた建物で、東南の前庭には魯山人自慢の蓮池があった。 この蓮池、初秋まで色とりどりの花を咲かせていた。 夕方になると蓮池を住処にする牛蛙がいっせいに鳴きだす。 魯山人好物の一つである餡かけムニエルの素材にするのはこの食用蛙であった。 魯山人旧蔵「古染付蓮池図手付鉢」 蓮池に釣り糸を垂らしているのが周茂叔。彼の姿が蓮よりも小さく見える。 古染付の全盛の天啓代に焼かれたものだろうか。純銀の手がついている。 ここに魯山人が蒐めた古染付の作品集『古染付百品集(上巻)』があるが、装丁も魯山人がしたのだろう。 表紙は古染を思わす青海波に小花散らし、題簽も魯山人である。 『古染付百品集(上巻)』 ページをめくると魯山人が愛藏していた「古染附愛蓮圖手付鉢」が載っている。 染付で描かれているのは、中国の故事を題材にした愛蓮図。 中国では花が散った後に、沢山の実(種)を付けることから「子沢山」の願いを叶えるとして愛された。 陶淵明は菊を愛し、林逋は梅、彼らに劣らず、周荗叔(以後、周茂叔)と蓮がよく知られている。 北宋の儒学者・周敦頤(しゅうとんい・1017~73)の字 (あざな) は茂叔(もしゅく)。号は濂渓 (れんけい)。 この手鉢について『古染付百品集』での魯山人の解説は、 「この染付は古調を帯びた方でありまして、土の仕事に妙味があり、図案また最も面白く、おのずから印象のなかなか深いものがあ…

続きを読む

星岡窯(ほしがおかがま)

北大路魯山人が古美術品を扱う『大雅堂』と『美食倶楽部』が大正時代にあったところが、現在、京橋にある「魯卿あん」です。 魯山人が立ち上げた『美食倶楽部』の会員が増え、料理を盛る器が足りなくなったことで、食器の制作のため、山代温泉にある須田菁華(初代)で食器を主に制作し、数窯焼いてもらいました。 ところが関東大震災ののち、芝公園で『花の茶屋』そして、山王台の『星岡茶寮』で使うことになり、その器の種類を増やすため、京都の伏見などで制作することになります。 幸田露伴が命名した「東山窯(とうざんかま)」の当主は加賀大聖寺出身の宮永剛太郎(1869~1941)で、京都伏見深草に登窯を持ち、青瓷を得意としておりました。 東山窯で窯つくりの名人だった川島礼一は同じ深草で作陶する河村蜻山と親しく、これが縁で魯山人は蜻山窯で刷毛目や三島、繪高麗風の作品を制作して焼かせてもらいました。 ほかに山中の矢口永寿での乾山風扇面鉢や三彩の皿、大聖寺の中村秋塘での金欄手の鉢、梅山窯では楽焼、宮永東山の青磁の壺や皿、瀬戸の加藤五助窯で織部や志野、黄瀬戸などで制作して焼かせてもらっていました。 星岡窯(ほしがおかがま) ですが、「自由に制作し焼成できる自らの窯を持ちたい」と思った魯山人は東山窯にいた川島を呼びます。 築窯にあたって魯山人は鎌倉山崎の自然との調和に努力しました。 川島礼一が築いた京風登窯の長さは十八㍍、幅八・五㍍です。 「星岡茶寮」(ほしがおかさりょう)の登窯ということで、 『星岡窯』(ほしがお…

続きを読む

備前焼の魅力探求

「土と焔の芸術」といわれる備前焼…… 備前焼をはじめ、上釉を用いない焼締陶は茶褐色になりやすい。 その多くは鉄分などを含む腐植質の粘っこい土が堆積したからだろう。 丹波や越前、そして全国の焼締陶のほとんどが茶褐色をしている。ところが、同じ茶褐色の焼締陶のなかで備前の陶芸界だけはすでに四人の人間国宝を生んだ。六古窯をはじめとする他の焼締陶の産地より、備前の陶芸家の数は断然多い。なぜ、それほどまでに備前の焼物は人々を引き付けてやまない魅力があるのだろう。 古備前 甕の陶片 備前焼は古墳時代の須恵器を礎にして綿々とその伝統を守っている唯一の焼物である。 平安の中頃から全国各地は戦乱つづきで農民は農地開拓が進まず苦しんでいたが、ようやく、武家社会となった頼朝の鎌倉時代、農業が発達した。これを起因として全国にある窯場では、どこも同じように農民の日用雑器としての「壺、甕、擂鉢」という“三種の神器”の必要性が生れ、この需要とともに本格的な焼物を焼成するきっかけとなっていく。 この時代にはどの窯業地でも、須恵器から伝授されたロクロを使わず、農民みずからの手で必要性をもって作ったため、粘土を紐状にして積み上げる原始的ともいえる紐造りで制作している。当然、上手に作ることよりも生活に密着する丈夫さを優先させたから甕や壺などの造形は左右対称にはしないおおらかなものだった。  ここまでは他の焼物と同じ様な歩みであった備前焼だが、大きな変革がもたらされた。『備前焼の三大革命』ともいえそうな改革であった。 第…

続きを読む

ヨモギ蕎麦

春のかわり蕎麦といえば、ヨモギ蕎麦‥‥   何も加えずに蕎麦粉だけが好きだが   ヨモギの香りが好きなので毎年、打とうとしている  連休の最終日、漸く、食することができた   岡本のヨモギ 蓬を練り込んだ 蕎麦粉は純白の「更科粉」   打ち水は唐津山瀬の「萬嶺水」   打ち粉は「更科粉」   黒田草臣 BLOGはこちら しぶや黒田陶苑のホームページに戻る  辻岡正美様 撮影

続きを読む

田中佐次郎作陶展 ‥‥ 日本橋三越本店

田中佐次郎展日本橋三越本店美術特選画廊        焱と闘う 田中佐次郎  新たな美への創生 ‥‥ 黒田草臣 「思想がやきものをつくる」といわれる田中佐次郎先生は、 茶禅一味のなかでつねに漢詩や書を親しみ、玄奥な陶の道への糧としている。 木々深く清麗なる水が湧く絶好の地の利を得て『山瀬』に登窯を築窯して以来、民家もない山深みの地‥‥。その清浄なる気に包まれながら新しい高みを求めて陶三昧の日々を送り、自らの芸術はどうあるべきかを問うてきた。 古唐津再興を願って多くの古窯址を巡っていた先生は四百数十年前、わずか二十数年で窯の火を消すことになった幻の名窯「山瀬」の古窯址で縮緬皺の美しい高台と薄く乳濁して瑞々しい一枚の陶片に出会い、手のひらでその輝いた陶片を握りしめながら、その場にしゃがみ込んでしまったほどの衝撃を受けられた。やきものに無常観を悟った佐次郎先生は、同時に山紫水明な山瀬魅せられ、「幻の窯」再興を決意し、心身研磨のため、越前の永平寺にて得度、法名「禅戒法月」の居士号を受けた。 一九七五年には永平寺と同じ曹洞宗の常楽寺(唐津市半田)境内に登窯と工房を築いて、土にこだわり強烈な炎の勢いを感じさせる豪放な古唐津を蘇らせている。 一路の光明を求めて山瀬に移ったのは一九八七年秋のことである。標高七〇〇m、山紫水明の山瀬にあった原生林を切り拓いて割竹式登窯を築いて初窯を成功させたのである。 李朝末期の詩人・玩堂の詩に「菩薩元来深き処に住む/ …

続きを読む

丸田宗彦‥‥大胆にして繊細な唐津

桃山時代もおわりの頃のこと‥‥ 「お茶碗戦争」ともいわれる文禄慶長の役で、 加藤清正とともに戦った鍋島藩の家老・後藤家信が慶尚南道金海の深海宗伝・百婆仙を中心とした千人近い朝鮮陶工集団を連れ帰ったといわれ、その証拠に武雄地区での古窯跡は約90ヵ所確認されている。  彼ら朝鮮陶工が良土を見つけ出した竹古場山の麓にある黒牟田では絵唐津、刷毛目、黒釉などの生活用品が焼かれ、江戸時代その伝統を綿々と守ってきた。 ところが明治時代には60軒ほどあった窯元が、時代とともに変容の渦に撒き込まれ、昭和30年代にはたった1軒となってしまった。  その一軒が昭和の初めに黒牟田焼の再興に力を注いだ丸田寅馬と、黒牟田焼を個性豊かな民芸陶へと導いた寅馬の次男・丸田正美の登窯だった。 放浪の天才画家・山下清が『放浪記』を書いた翌昭和32年に訪れ、正美作品に絵付けをされるなど陶芸ブームにのった黒牟田焼・丸田正美の名は全国に広まった。 丸田宗彦井戸黒茶碗  丸田正美の次男・丸田宗彦は子供の頃から古窯址の物原が遊び場だったという。 竹古場山の麓から獣みちを登ると古唐津の陶片がザクザクあった。スケールの大きな錆谷や小峠など唐津焼の名を高めた古窯址である。  益子と黒牟田で修業してのち、渡来陶工が見つけてくれた”土の宝庫”武雄で、「自らの陶の道はどうあるべきか」と思考し、独立とともに、「家業の民芸陶より伝統ある唐津焼をしたい」と、新たな答えを見出して内田皿屋窯を築窯した。胸に秘めた思いを古陶片から学び、子…

続きを読む

魯山人展  魯卿あん

北大路魯山人先生が「魯卿」(ろけい)と名乗り始めたのは大正5年(1916)の33歳になった時です。 岡本可亭の書生となって時以来、唐代の「顔真卿」(顔魯公)に傾倒しておりました。 魯とは愚か、大ざっぱで間が抜けていること。その「魯の字が好きだよ」と、『魯卿』と名乗っています。 『魯卿あん』 床  翌年には神田駿河台のシンボルでもあるニコライ堂(東京復活大聖堂教会)の鐘の音が心地よく聴こえる紅梅町の借家に「古美術鑑定所」の看板を掲げて、書と篆刻の仕事もしておりました。  鎌倉に越したのは大正七年のことです。アジサイ寺といわれる明月院の門前にあった高梨家を借りました。谷川に架かる石橋を渡った茅葺き屋根の田舎家と納屋のような小屋があり、ここに「北大路魯卿」の表札をかけました。夏になると好物のスイカを谷(やつ)で冷やし、家族皆で食べるなど忙中の閑を楽しまれたようです。近くの小坂小学校へ転向した長男の桜一は素直で習字もうまく、勉強もでき、大正10年には小坂小学校を首席で卒業し、鎌倉五山第一位の建長寺が創立した鎌倉学園中学校へ入学しています。  このころ京橋の交差点にほど近い実業之日本社の増田義一社長に認められ、「実業之日本」の看板を頼まれ、同社の雑誌「日本少年」、「小學男性」、「少女之友」、「実業之日本」の表紙題字なども手がけました。さらに現在の明治屋の所にあったレストラン「メゾン鴻乃巣」の看板もこの頃、仕上げています。厚みが15cmある欅の一枚板(3m×90cm)で彫銘は魯卿です。「…

続きを読む

小さな蕾 「骨董屋さんに行こう」

「小さな蕾」(創樹美術出版)という骨董雑誌の五月号  ‥‥骨董屋さんに行こう‥‥の取材を受けました  聞き書きということで、魯卿あんで取材していただきました 「小さな蕾」 №574 2016年4月14日~16日に開催されます「東京アート アンティーク2016」の冊子 魯卿あんでは「大芸術家 北大路魯山人展」を開催いたします どうぞご高覧下さいませ 魯山人「大雅堂」・「美食倶楽部」発祥の地  魯卿あん‥‥Rokeian定休日:日曜日・祝日 〒104-0031 東京都中央区京橋2-9-9    TEL: 03-6228-7704 FAX: 03-6228-7704 営業時間:11:00~18:00 Email:rokeian-kuroda@jupiter.ocn.ne.jp 黒田草臣 BLOGはこちら しぶや黒田陶苑のホームページに戻る  辻岡正美様 撮影

続きを読む

床「春来草自生」 花入「備前手桶」‥‥どちらも北大路魯山人

春、魯山人邸に向かうと、一面を黄金色に染める菜の花と春風に揺れるタンポポが迎えてくれる   その のどかな山崎の里へ   魯山人邸の山門までは雪柳が、可愛い雪白の小さな花をつけた枝を伸ばしている 「自然美礼賛」を謳う魯山人らしい路地だ 魯山人が好んで書いた春の詩に 「春色無高下 花枝自短長」 や「春来草自生」を好んで書いている 「春色無高下‥‥」というのは、 春になると上にも下の枝にも平等にやってくるのだが、花や枝は自ら長さや形を選ぶ  同じ陽光を浴びても枝の伸び方は長短があるように 誰にも個性がありその表れ方は様々である ‥‥平等と差別が調和した世界を言っているようだ 魯卿あんの床 「春来草自生」というのは「兀然無事坐   春来草自生」とある言葉からきているようだ 兀然(こつねん)として無事(ぶじ)に坐(ざ)すれば、春(はる)来(き)たりて草(くさ)自(おのずか)ら生(しょう)ず 「自然の流れに逆らわず、春が来れば自然に草が生え、秋になれば葉が落ちる ただじっと座禅をしなさい その時になれば悟りの境地は自然と訪れる」という仏教書からの出典だそうだ イサム・ノグチの紹介でロックフェラー三世夫人が山崎の魯山人を訪ねて来られた昭和28年、ワシントンで『日本古美術展』が開催されるなど日本文化がアメリカでも興味をもたれるようになっていた。 「世にも珍しい備前の土。この土が有つ美しさ、いや美しからざる美しさ、そこに表れている『味』」 と備前土を賞賛す…

続きを読む

北大路魯山人「良寛詩」‥‥赤呉須の筆筒に力強く銀泥が躍っている

北大路魯山人も良寛さまが大好き、一字一句もゆるがせにせずに揮毫した筆筒 美しく気高い内容、デリケートな線、その時々で自分の心にあった素直な良寛の芸術性‥‥ 魯山人これに倣い渋めの赤呉須の地に銀泥で一字一字気合いを入れて書いている 文字の厚みが魯山人作品の特徴で、光の具合で見え方がまるで違う これを狙っていたのだろうか 筆墨硯紙という文房四宝を大切にした魯山人 当然、筆筒にも目を配っていた 良寛の揮毫に倣った魯山人の筆筒を数点取り上げてみたい 間庭百花發 かんてい ひゃっか ひらき 餘香入此堂 よこう このどうに はいる 相対共無語 あいたいして ともにかたるなく 春夜々将央 しゅんやよるまさに なかばらんとす 静かな庭には たくさんの花が咲きそろい、 あふれる香りが この座敷の中まで漂ってくる あなたと向かい合っているが、ともに語ることもなく過ごしていると、 春の夜はそのまま更けていき、いつしか真夜中になろうとしている 越後の春は梅桃桜の花が同時に開くという  雪国だからだろう 良寛と阿部定珍の二人は夜の更けるのも忘れて、庭に咲いた花の香りに心を奪われて 何も語らず、春夜を楽しんだ 五合庵乙子草庵時代の良寛さまを詩歌の師としていた阿部は、良寛より二十歳若いが、良寛さんを良く訪ね、心が通いあい、二人で唱和した詩歌も多いという 阿部家にある数多い良寛遺墨の中でもよく知られており、「良寛の里づくり事業」で平成3年…

続きを読む

加藤唐九郎 『才気煥発』 ‥‥ 魯卿あん

常人の枠を超えて波乱万丈の陶芸人生を送った加藤唐九郎‥‥ 「水のみ百姓兼瀬戸の貧乏窯屋」と自らいう半農半陶の家に明治31年(1898)に生まれた唐九郎は 幼少の時から土に親しんで、陶片拾いで遊んだというまさに窯元の申し子だ。 「学校教育は人間をだめにする」と、家業再興を願う祖母の方針で、やきものの技術を叩き込まれた。 13歳の時、桃山時代の黒織部茶碗に触発され、美濃陶を手がけるようになった。 父の丸窯を譲り受けて、「唐九郎」の名で早くも作陶家として独立したのは16歳の時である。 大正7(1918)年、21才で結婚し、「瀬戸の唐九郎」として古窯址の発掘しながら、本格的な陶磁器研究も始めた。 こうして桃山の名品をみる機会が多くなった唐九郎は志野に開眼し、32歳の昭和五年の冬、古陶に倣って新たに穴窯を築いて志野を焼いた。 この窯出し作品を三井物産の横井夜雨が五碗求めてくれた。 その中の一つを茶友の益田鈍翁に届けた。 当時、鈍翁は関東大震災を期に名古屋にきていた近代茶の湯の数寄者。 これをみた鈍翁は「現代作家が『卯花墻』(国宝・桃山時代)を師とした」ということから『氷柱』と銘をつけ、 「藍は藍より出でて尚青く 氷柱ハ水より出でて尚冷たし 鈍翁誌」と箱書した。 昭和10年、川喜田半泥子の全面的援助で、名古屋市郊外(現春日井市)の翠松園に仕事場を得た。 現在、唐九郎作となっている作品のほとんどが、この翠松園での制作である。 「一にも土、二にも土,三にも土、…

続きを読む

魯山人作 「信楽すすき詩文壺」‥‥ 魯卿あん便り  自然美一辺倒

魯山人の住まいは慶雲閣と、名づけられ…神奈川県の重要文化財に指定されている建物だった。 庭には睡蓮が群がって咲く池があり、そこに番いのアヒルが泳いでいた。 魯山人亡き後の慶雲閣(撮影:高木義明氏) 慶雲閣は凛とした数寄屋造り、二十畳敷の大広間を中心に八畳が二つ。 板の間の六畳、細長い十二畳ほどの台所、そして四畳半の書斎兼仕事場があり、 そこに平安後期に渥美古窯で焼かれた「秋草文大壺」(現・国宝)の写真がかかっていた。 秋草文壺(慶応義塾大学蔵)昭和17年4月、横浜日吉近郊の「白山古墳」(全長87m)から出土した。 窯場の方から「ギーコンパッタン、ギーコンパッタン」と土を砕く音がひびいていた。 山里で聞いたような水車小屋で米を搗く音に似ている。 固くなった信楽の黄瀬土を 「土練りの横山」と慕われていた職人さんが砕いていたのだ。 体の調子が悪くとも一日も休まない。 毎日、鎌倉山から小袋坂を自転車で上って通い、魯山人の晩年に土作りを十年以上も勤めていた。 晩秋の魯山人邸の庭には、ススキが尾花をたれ、枯れかかった羊歯や苔の間に、 ホトトギスが力なく咲き、そこに紅葉が舞っていた。 魯山人は午前中の仕事を終えると、スケッチブックを片手に庭に出て鉛筆を走らせていた。 正面にはススキ      裏面には魯山人の境地を彫りこんだ 「信楽すすき詩文壺」に使われている土は、 朴訥な横山さんが丹精込めてこさえた信楽最良の土といわれる黄瀬土である。 土味の緋色が…

続きを読む

北大路魯山人作 「三彩汁次」‥‥魯卿あん便り

なんと、可愛らしい汁次でしょうか。 魯山人の優しさが、形状にも、色絵の水玉模様を置く筆遣いにもあらわれています。 「阿古陀形(あこだなり)」というカボチャのように湾曲した曲線を取り入れた平たく丸い形状の香爐や茶入、香合がありますが、この汁次の胴のふくらみもそのような南瓜(カボチャ)を思いおこさせます。   魯山人のこの汁次のスタイルがヒットし、京都や美濃、有田などのちの汁次の代表的な形になったのは言うまでもありません。 受け皿は鉄釉(魯山人は古九谷様式の吹坂手が好きでした)、「ロ」のサインが見えます 今年のハロウィンの賑わいにはびっくりしましたね。 秋の収穫を祝い、悪霊や魔女などから身を守るための仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いていたという‥‥ 英語圏の宗教的な意味合いのある行事であったようですが。 魯山人「大雅堂」・「美食倶楽部」発祥の地  魯卿あん‥‥Rokeian定休日:日曜日・祝日 〒104-0031 東京都中央区京橋2-9-9    TEL: 03-6228-7704 FAX: 03-6228-7704 営業時間:11:00~18:00 Email:rokeian-kuroda@jupiter.ocn.ne.jp 黒田草臣 BLOGはこちら しぶや黒田陶苑のホームページに戻る コウノトリ白山辻岡正美様 撮影

続きを読む

木村盛和「木の葉天目」再現、越前の地に‥‥先生を忍んで②

京焼の源流といわれる「音羽焼」が、この地にあったことから京焼のメッカとなった五条坂‥‥。 奥田頴川、仁阿弥道八など活躍で江戸時代後期には粟田口を凌いで  急速に発展して「清水焼」を確立させた場所でもある。 この五条坂で作陶をはじめられた盛和先生は16歳の時、京都市美術展に初入選して早くも頭角を現した。 陶芸家としての第一歩を踏み出され、昭和12年から試験所の職員として、釉薬のテストを重ねてこられた。 特筆するのは窯業化学的な研究だけにと止まらず、原石や鉱物から釉薬を作り出すことに専念していたことだ。 「この五条でやきものの釉(うわぐすり)が、わかるのは木村さんしかいないね」 と八木一夫に言わせたほど群を抜く研究熱心さだった。 鉄分の多い胎土に漆黒の釉がたっぷりと掛けられ、輝く斑紋が浮かび上がっている「油滴天目茶碗」(国宝・大阪市立東洋陶磁美術館蔵。東博や静嘉堂文庫の油滴天目茶碗は重文)に憧れをもって『天目釉』を追及するようになられた。宋代の陶工を想い、全国の鉱山などを廻って探索するようになられた。 その結果、盛和先生の油滴天目作品には800年前に焼かれた建窯の天目茶碗に劣らぬ深味と重厚さが備わっていた。 北宋から南宋代に焼かれた「天目茶碗」の故郷は福建省建窯が有名だが、江西省にも「玳玻盞」「鼈盞」など特異な天目茶碗が焼かれた吉州窯がある。ここではバリエーション豊かな天目を焼いているのだが、なかでも最も個性的なのが『木の葉天目』だと思う。とくに前田家伝来の『木…

続きを読む

嗚呼‥‥木村盛和先生①

私の尊敬する陶芸家が、また一人亡くなってしまった。 鉄釉(天目釉)一筋、80年近くも追求されてきた木村盛和先生である。今年の8月12日に肺炎で亡くなれていたのだが、奥様の昌子様も病床におられることもあり、公表は控えられていた。 福井新聞に「木村盛和氏をしのぶ」という記事が載ったと、福井在住の友人からそのコピーを送っていただいた。 福井新聞9月30日付 木村盛和先生は日本最大の工芸公募展となった「日本伝統工芸展」を主催する「日本工芸会」の誕生に石黒宗麿や宇野三吾らとともに陰ながら推進した実力派の陶芸家だ。 生まれは大正10年、京焼のメッカ五条坂。石川県加賀市生まれの父・繁氏は名工三浦竹軒の染附と上絵付師、母親も釉薬を乳棒で磨る仕事をされていた。 物心がついた時から登窯のある街で父親の後姿を見ながら育ったことで、昭和12年、京都市立第二工業学校を卒業すると、商工省が所管する国立陶磁器試験所入所して、陶芸家の道を歩むことになった。 試験所では職員として各地から送られてくる岩石や鉱物の耐火テストに従事し、鉱物からなる鉄釉(天目釉)の研究と素地の基礎的研究に着手された。 昭和17年1月から陸軍へ入隊。南支といわれた中国の華南へ派遣され、広東省へ、戦地に居ながら、その北隣の福建省には天目茶碗の故郷・建窯があり、「生きて帰れたら必ず天目をやりたい」と誓ったという。   昭和21年春、厳しかった軍隊生活を終えて帰還され、戦後、京都の五条坂に於いて陶業「盛和焼」を開窯して独立。 自…

続きを読む

銀彩蟹平鉢 ‥‥ 魯卿あん便り

銀彩という水面を通して、蟹が浮かび上がってくるようです。  北大路魯山人の最晩年の念作です。 魯山人の描く蟹の多くは「ワタリガニ」です。 蟹は横に歩くので、周りに左右されず、我が道を行く君子に譬えられ、中国では蟹のことを「横行君子」(おうこうくんし)と呼んでいます。 独立独歩、唯我独尊‥‥魯山人の専売特許のような独壇場といえる魯山人の描く「蟹」 縁に色絵で描かれた雁木文から、この作品が「輪花鉢」のような錯覚さえ覚えます。 土味の良い備前土をベースに使った鉦鉢といえるような平鉢‥‥ 備前窯で赤松を一週間ほど焚いた本焼の焼成してから、 銀彩と色絵を施してから、薪を燃料にした錦窯で焼成した作品です。 北大路魯山人 銀彩蟹平鉢(共箱) 径21.0 高4.1㎝ とはいえ、「銀彩」を考え出した魯山人は凄いです。  魯山人「銀彩の秘密」はこちら それまで備前焼には釉薬を掛けても発色しない、上絵も吸い込んでしまうので、出来ないとされていたのですから‥‥。 多くの陶芸家が魯山人の銀彩を真似ています。 ところが、釉薬会社が開発したパラジュム(palladium)を合成した釉薬を使って電気窯で焼成するので、魯山人作品のような深みのある“いぶし銀”の良さは出ませんね。 魯卿あん 黒田草臣 魯山人「大雅堂」・「美食倶楽部」発祥の地  魯卿あん‥‥Rokeian定休日:日曜日・祝日 〒104-0031 東京都中央区京橋2-9-9    TEL: 03-6228…

続きを読む