北大路魯山人 於里辺ツツ花入 ‥‥ 魯卿あん便り 【4】

ペルシャや安南がルーツとされる緑釉の「織部」‥‥ 最も日本人の精神の高揚した桃山時代の美濃地方に、はじめて登窯がもたらされた元屋敷窯から、一躍脚光を浴びる。 信長・秀吉・家康の三代にわたって仕えた武将である古田織部が大流行させた〝やきもの”。 江戸・明治・大正の世を過ぎ、いつしか織部が瀬戸で焼かれていたと思われていた。 ようやく、 昭和五年に美濃山中で志野などともに焼かれていたことが証明された。 於里辺ツツ花入に秋草 こうして豊藏と魯山人、唐九郎などは多くの古窯址を発掘して、そのノウハウをえた。 とくに魯山人は「織部」にまつわるお道具だけの茶事を催すほどの、織部好きだったから、 登窯でその再現に取り組み、やがて「昭和の織部」を創りだした。 これによって昭和30年、文化財保護委員会から「織部焼」の国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)認定を文部技官・小山冨士夫から打診されている。 ところが、これをきっぱりと断り、翌年もまた拒否した。 魯山人は生涯、『無冠』を貫いていたからだ。(名刺にも肩書を書くことはなかった) 志野や瀬戸黒では荒川豊藏、そして鈴木藏、加藤孝造などがのちに認定を受けたが、 「織部」では、その後の60年間、指定された陶芸家は魯山人以外には誰もいない。 魯山人は晩年に織部の緑を生かす「総織部」が多くなった。絵を施さないと単調になりがちの織部釉だが、魯山人独特の変化が気品を持たせている。 穏やかに立ち上がった轆轤目が、透けた織部釉のさわやかな…

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イサム・ノグチの陶芸「魯山人との邂逅」‥‥花美術館

「修正の出来ない彫刻だ」と、その男 イサム・ノグチが叫んだ陶芸‥‥ 陶芸への興味   魯山人との出会い     田舎家のアトリエ       備前焼を創る         神奈川県近代美術館での個展 ‥‥ イサム・ノグチのこと、p38~p45まで、拙文を書かせていただきました 花美術館  特集イサム・ノグチ イサム・ノグチ展   イサム・ノグチ作品展 神奈川県近代美術館(1952年)  日本橋三越(1950年) 花美術館№44  特集 大地を彫刻するイサム・ノグチ 魯卿あん (Rokeian) 〒104-0031東京都中央区京橋2-9-9 ☎& fax 03-6228-7704   ◇黒田草臣 四方山話◇   facebook kusaomi kuroda 当苑・ブログ“陶心” 辻岡正美氏

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秋を謳い上げる魯山人

鎌倉山崎の切通『臥龍峡』を抜けると山間に分厚い茅葺屋根の魯山人邸が姿を現します 朝晩、涼しくなる今ごろに伺うと、草むらでは虫達の合唱が始まっています 鳴き止まぬエンマコオロギはもちろん、「スーイッチョン」と鳴くウマオイ(私たちはそのままスーイッチョンと呼んでいた)、「ガチャガチャ」のクツワムシ、「チンチロリン」のマツムシ、スズムシ、キリギリスなど賑やかでした 夏のセミと同じくオスがメスを呼ぶ求愛のサインだそうです 一匹が鳴き出すと呼応するかのように歌合戦です 自然を愛する魯山人はその虫たちのためでしょうか、田圃を一畝(いっせ)ほどツブして、そこにススキや萱、葦、葭などイネ科の植物を植えました 季節によって姿を変えるイネ科の植物たち。風になびき光を受けキラキラと輝く秋になれば「尾花(おばな)」も出て、虫たちがカクレンボしながら気持ちよさそうに鳴いていました 魯山人は午前中、来客がない時はそれらを写生する姿をよく見ました 「毎日見ていても飽きない、見るたびに新しい発見があるのだ」といわれた魯山人 魯山人語録に 「注意力を鋭く、厳しくして、自然の真を観て行け」というのがありますが、 まさにこのことだったのかとのちに思いました 本日の作品も、そうしたスケッチから生き生きとした強い葉の描き方、釉薬の溜まりも、朝靄のように観ることができるのも、魯山人芸術のなせる業だと思うのです この作品「於里辺草虫四方鉢」(共箱)は昭和31年(1956)に制作されまし…

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小山冨士夫 「粉吹茶碗」と「唐津皮鯨茶碗」

昭和3年5月のはじめのことである。 北大路魯山人は下関から関釜連絡船で釜山へ渡り、釜山から大邱、大田(テジョン)経由の鉄道で京城に夜行でやってきた。貴族院議長公爵徳川家達の書状をもって朝鮮総督府に立ち寄り、そこから護衛つきの車で一か月間、古窯址を巡り、鶏龍山の陶土や朝鮮カオリンの原料を求めにきたのだ。同行者は長男の櫻一、星岡窯を築窯した川島礼一、そして荒川豊藏など星岡窯のスタッフである。 着いたばかりの京城の駅頭で沢山の荷物を両脇におき、はみ出したシャツをズボンのベルトの下に押し込む男がいた。 前年の秋に続いて朝鮮半島の古窯址発掘調査にきていた小山冨士夫であった。 「ぼくは昨年の秋には慶州、金海、鶏龍山などの古窯址そして中国の奉天、北京でやきものをみてきました。今回もまた、古窯址を発掘しているが、そちらは豪遊ですね。ぼくは貧乏旅行だから駅のホームのベンチか野宿ばかり。でも慶州で別嬪さんに出会いましたよ」 小山冨士夫は陶友・石黒宗麿からの影響で、中国の宋瓷や唐津焼に傾倒していた。 宋瓷では磁州窯の白釉・宋赤絵・柿釉・油滴白覆輪・掻落などであり、 唐津では絵唐津をはじめ斑唐津、朝鮮唐津、蛇蝎唐津などを好んでいた。 皮鯨茶碗唐津にて焼成した皮鯨茶碗でやや薄手で点てやすく、使い勝手の良い沓形の茶碗 高台わきに「古」のサイン 小山冨士夫作品には高麗茶碗といわれる朝鮮系は少ないが、粉引や刷毛目を作っている。 とくに粉引は好み、晩年には純白の粉引を好み、 素地の中にマンガンの…

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藤原建‥‥自らを主張できる備前焼

岡山県の備前に「ケンちゃん」、「建さん」の愛称で、愛陶家を唸らせた陶芸家がいた。 昭和の備前陶芸界を全盛に導びき、「備前一の窯焚だ」といわれた人こそ抜群の造型力を誇った藤原建である。 金重陶陽と北大路魯山人に師事したことで将来を嘱望され、備前の陶芸界で、「金重陶陽のあとを継ぐのは藤原建だ」という評判さえあった。 備前窯変花入 “備前中興の祖”といわれる金重陶陽の功績を顕彰して、日本工芸会中国支部では「金重陶陽賞」という特別な賞を設定した。これは陶芸、漆芸、木工、染織など活躍の目覚ましい工芸作家を対象とした賞であった。 昭和44年(1969)、第一回目の栄誉ある金重陶陽賞を受賞したのは藤原建である。 その後、昭和48年5月には岡山県重要無形文化財に指定されるなど備前の将来を担う第一人者となったが、心臓発作のため、53歳の若さで急逝された。 一般には一周忌といわれる黒住教の一年祭に、地元の医師・浦上新一郎や備前市議の樫本諭、そして友人などの呼びかけで、藤原建が築窯した大窯に隣接して記念碑が建てられた。 「作るんじゃない 生むのだッ」と時の黒住教教主・黒住宗晴が揮毫した碑である。 藤原建昭和42年 藤原建は大正13年7月12日、岡山県和気郡伊里村大字穂波526番地で農家を営む藤原静支の三男として生まれ、「健」と命名された。 昭和21年に復員後、叔父の藤原啓に、 「ブラブラしているのだったら、俺の窯を手伝わないか」といわれ、 備前焼の道に飛び込んだ。 …

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根来塗風に仕上げてみた沢栗盆2種と椀

栗材を盆と椀に挽いていただき、手斧、鉋、などで削って塗ってみた。 椀1 盆 1 盆 2側面は鉈 魯卿あん (Rokeian) 〒104-0031東京都中央区京橋2-9-9 ☎& fax 03-6228-7704   ◇黒田草臣 四方山話◇   鎌倉彫を再生 facebook kusaomi kuroda 当苑・ブログ“陶心” 辻岡正美氏

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島村光と古陶の共演展‥‥黒住教宝物館

平成27年2月16日に島村光先生は2014年度 「岡山県文化奨励賞」 を受賞された。 岡山市北区尾上神道山にある黒住教本部の大教殿で「島村光と古陶の共演展」が開催され、二重の喜びとなった。 そこで4月18日(土)、私も「古陶の共演展」の奉告式に出席させていただいた。 その後、宝物館での「お直会」(おならいかい)での立食パーティーがあり、島村光作品と古陶の鑑賞会となり、会場は島村先生の人柄そのもののように和気藹々の会となった。 古備前窯道具の陶板と島村光作品 ― 忘れもの ―“古いものはええなぁ”と人は言う そんな時、私はいつも“古いものはええんです”と答えてしまう 言うまでもなく古いものには時代を超えて生き続けてきた底知れぬ力があり 私はそんな力に圧倒され言葉を失ってしまう 一体その力は何に根ざしているのだろうか 遠い昔にあって今は無いもの そんなー忘れもの―を捜しにタイムスリップするかのような 古陶との共演 身に余ることですが この度 宝物館所蔵品の中より選ばせていただきました 縄文から室町時代までの作品22点と私がこれまで作って参りました35点を合わせて 「島村光と古陶の共演」展を開催させていただくことになりました このような展示の機会と同時に大きな刺激 大きな課題 そして大きな楽しみを頂きましたことを心から感謝いたします      島村光 島村先生と会場で 黒住教の立教200年を記念して 変わら…

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渡部秋彦‥‥丹那盆地の登窯で青瓷を極める

黒沢明監督による「七人の侍」(東宝)のロケ地となった伊豆丹那盆地 1954年(昭和29年)4月26日、監督は黒澤明、主演は三船敏郎と志村喬、207分の映画。 黒澤が尊敬するジョン・フォードの西部劇映画から影響を受け、当時の通常作品の7倍ほどに匹敵する製作費をかけ、700万人の観客動員を記録したといわれている。 「七人の侍」撮影風景(映画の友) 窯から見える夕暮れの富士 1959年生まれの渡部秋彦が、ここに全長8,30mの特殊な薪窯を自ら築いたのは独立25周年目のことだった。 すでに郷里の山形平清水でも完全地下式の穴窯を築いて、90回ほど焼成している。 神秘的な窯変米色青磁を創りあげるために築いた新窯の焚口は富士山側とし、 全長8,30m幅2,25m、傾斜14度の特殊な窯を設計し、レンガ9500丁を使って自ら築いた。 材料は天然素材を求め、赤松で火前は1400度まで上げる。 土も釉も機械に頼らず、杵と臼で突いて粉砕して粘土にしていく。 渡部秋彦は学術的そして科学的な素材に頼る上辺の美しさを競う青磁より、 薪窯を使って、自然界からの素材だけで深味のある作品を目指しているのだ。 「青瓷 渡部秋彦展」出品作品の一部 ※魯卿あんは、5月7日より平常通り営業しております。   ◇黒田草臣 四方山話◇   facebook kusaomi kuroda 当苑・ブログ“陶心” Photo:辻岡正美氏 …

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魯山人の備前焼。そして銀彩を施す‥‥魯卿あん

備前焼の土に、釉薬を掛けると巧く発色しない。 上絵を施しても備前土に吸収されて色が出にくい。 一週間以上かけて焼いたものに上絵する必要があるのか。 などといわれ、やむを得ず無釉焼締で“一千年の伝統”を守ってきた備前焼‥‥ この備前焼に画期的な銀彩を魯山人は施した。 陶陽工房での制作 昭和27年、北大路魯山人はイサム・ノグチを連れて備前へ行った。 備前に廃窯になった登窯を見ると、一目で気に入った。 いてもたってもいられず、これを解体して山崎まで運ばせせる手はずを調えた。 しばらくして備前窯の煉瓦が山崎の魯山人邸に到着した時、金重陶陽に連絡した。 昭和28年2月、陶陽は藤原建を伴い、鎌倉山崎に出向き、一月半ほど逗留して築窯のための采配をふるった。 いよいよ備前の登窯が完成。土も備前から取り寄せ、魯山人は制作に没頭した。 この備前窯の窯詰と窯焚きは、ほぼ藤原建に任せて焼きあげたが、一回ごとにくべる薪の量、最後の大くべや火を落とす時などは魯山人の勘が冴えた。 四方鉢の裏備前土の景色 銀三彩が施された 昭和29年、魯山人の備前窯第二回目の窯詰にも藤原建は手伝い、8月の窯出しまで約半年間滞在した。 三回目以降の窯焚きは魯山人の窯場のスタッフだけで焼成したが、陶陽や建のいない窯焚きは、焼きの甘いものとなってしまった。しかも、すでに廃窯となっていた登窯だったから構造上の欠陥があり、作品も伊部の陶陽の窯と土を使って焼いたものよりも数段劣ったものが出来上がってしまったのだっ…

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森 陶岳‥‥なぜ全長85mの大窯を築いたか?

備前焼の岡山県重要無形文化財保持者・森陶岳さん(78)=瀬戸内市牛窓町長浜=が、 同所に築いた空前の「新大窯」(全長85メートル、幅6メートル)で、 107日間にわたって続いた窯焚きが20日朝、終了した。 午前8時10分、小雨が降る中、窯内部を確認した森さんが、 「よっしゃ、いい焼けだ。火を止めよう」と大きな声を上げて指示を出した。 窯の横に開いた小穴にわら、薪(まき)をくべていた弟子6人は作業を止め、 約100あるうち、まだ閉じられていない6の小穴に次々ふたをかぶせ、周囲を土で塗り固めた。 最上部の「煙道」の吹き出し口の穴16カ所も換気口となる一部を除き、ふさいだ。 と、21日の山陽新聞で報じられた。 火をとめられる2日前、 「トラブルが起きても、いいやきものになるような焼き方をしたい」と言われる森陶岳先生に、 「なぜ、新大窯を築かれたのか?」と伺ってみた。 戦国時代になって、急激に大甕などヤキモノの需要が多くなってきた。 備前大窯のシステムが専門職を養成し、 大量の大甕を焼いて、時の大名などの需要にこたえている。 一般に「素晴らしい土」と言われている蛙目土のように、焼いても収縮が少なく、 トラブルも少ない土があるが、そうした良い土を使わずに、 収縮が大きく、急な温度の変化についていけない備前のデリケートな土を使って、 なぜ大窯で長時間焼いて、大甕を焼いていたのか? 疑問に思った。 なぜ備前土で焼かれたか? 過去にはそうした…

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森陶岳先生の「寒風新大窯」‥‥最終段階の窯焚

森陶岳先生の「寒風新大窯」の窯焚をみせていただいた。 1月4日に火入してから、すでに100日以上焚いている。 ここを抜けて陶岳邸へ 左が全長53メートルの「寒風大窯」  右が 全長85m幅6m高さ3mの「寒風新大窯」 長い窯焚が終わった大口は閉じてある 人の高さほどある「五石甕」など大甕97点、ほかに多くの作品が詰めてある。 最終段階の窯焚 鋭いまなざしで炎をみる陶岳先生 窯焚に使った薪はすでに4千トンを越したようだ。 全長85メートルの頂上で、陶岳先生と    ◇黒田草臣 四方山話◇   facebook kusaomi kuroda 当苑・ブログ“陶心” コシアブラ山吹Photo:辻岡正美氏

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大芸術家 北大路魯山人展 ‥‥ 『魯卿あん』便り

「感激のないものには精神の緊張がない。感激が傑作を作るといってもよい。 自ら感激して初めて人を感動せしめることができるのである。」 と語った魯山人の言葉が好きです。 魯卿あん 会場 「悠寬」悠々寛々たる  京橋の魯山人所縁の地に『魯卿あん」を開店させていただいてから、 3冊目の作品集ができました。 厳しい鑑識眼をお持ちの魯山人ファンの方に、 ぜひ観ていただきたい名作を展示させていただきました。 銀三彩四方平鉢同裏・備前土に「ロ」 ぜひ、ご高覧いただければとご案内申し上げます。 大藝術家 北大路魯山人展 2015年4月13日(月) ~ 4月25日(土) ※4月19日(日)はお休みを戴きます。 於:京橋 魯卿あん  Kitaoji Rosanjin   April 13 to April 25, 2015 於里 この葉平向色絵葉形鉢 短冊赤呉須徳里「其楽陶々」 『魯卿あん』のございます「東仲通り」といわれ古美術店が多い通りです。 この道続きの日本橋三丁目に、父・領治が昭和十年に開店した『黒田陶苑』がございました。 魯山人は、店の看板にと「風雅陶苑」という刻字看板を彫琢してくれました。 昭和20年3月の東京大空襲で焼けてしまうまで、店先に掲げておりました。 風雅陶苑魯山人刻字   ◇黒田草臣 四方山話◇   facebook kusaomi kuroda 当苑・ブログ“陶心” イカリソウ山吹Ph…

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丸田宗彦…風格を纏う「独創唐津」

 風格を纏う「宗彦唐津」 作陶の修業に出られてから今年で、はや35年目。  1987年に独立、登窯を築窯された丸田宗彦先生の陶房は  武雄市郊外の喧騒を離れた高台にある。 数寄者の邸宅を思わせる苔むした路地が、清々しく迎えてくれて、 その背景には全長3・5mの小ぶりな穴窯が佇む。 穴窯は築窯されてから、すでに15年‥‥、 自らが得心のいく質感を備えた絵唐津を焼くための半地下式穴窯だ。 茶碗の高台穴窯作品 ここから柔らかな釉景とリズミカルな筆さばきが響きあう、 含蓄の富んだ「絵唐津作品」が誕生している。 古今のやきものを通じて、もっとも愛されてきた古唐津‥‥ 中でも絵唐津は唐津の代名詞的存在で、 内田皿屋窯や甕屋の谷、多久高麗谷などの古窯から数々の傑作が世に出た。 これらの古窯址を巡り、土探しに出かける。 土だけではない、釉の原料となる長石や鉄も、探しあてながら独りで掘る。 手間のかかる土つくりのほか、もちろん釉薬も自家製。 斑唐津などに使う藁は親戚の農家から分けてもらう。 先生自身は謙虚だが、こうした絵唐津に対する執念が 格調高い釉調をもたらしているのだろう。 青唐津大壷登窯作品 今回は、絵唐津に新たな発想も加えられた。 絵唐津の中での「皮鯨」のバリエーションである。 つくりとか重さとか考えずに自由に造形された茶碗を主に一文字のような単純な筆遣い。 初期唐津の素朴さが蘇ってきたかのようだ。 加えて得意の青唐津大壺を、久々に紐作り…

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石黒宗麿…千点文・掻落などの磁州窯に挑む

生涯、師をもたず、古典から学んで努力を重ねて 独り孤高を貫く意地に徹した石黒宗麿。 洛北八瀬の櫟林を切り拓いて、念願の登窯を築窯。 洛北の四季に包まれながら作陶を楽しんだ。 「新緑雑木画賛」櫟林に新芽 一年無日不看花 鳥語喃々樹上譁  四面有山皆入畫 不偏流派興加 ここ八瀬は一年に亘って花を見ない日はない 鳥は樹上でお喋りし、やかましい 四方が山に囲まれているので画を描けるものばかりである 流派にとらわれず自分の思うように描くことができるからより興味が加わってくるのだ 宗麿邸に残る蹴り轆轤と囲炉裏  同天井 八瀬に残る登窯 昭和のはじめ、日本で紹介され始めたばかりの中国宋代の陶磁に魅せられた石黒宗麿。 「黒、白、柿釉などが焼かれた宋代の釉薬は、もうこれ以上ものが望めないくらい完成されている。そしてこれらは高い精神性を持っている。こうした中国の陶器が日本に出来ていないことが魅力で、私はやりだした」 と『淡交』1952年2月号で述べている。. 「飛鉋」千点文蓋物千点文汲出碗 別名「 飛白文 」といわれる手法。 カオリンの白泥で化粧してのち、鉄釉を施して乾燥させ、柱時計のゼンマイの弾力を利用したヘラを使って、轆轤で削り出す「飛鉋」。磁州窯では北宋の小壺が多くみられる。 1920年のことだった。 中国河北省南部の邯鄲(かんたん)市の鉅鹿(きょろく)で井戸を掘ったところ多くの磁州窯の陶片などが出土した。天津博物館の調査によって北宋の大観2年(…

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梶原靖元…初期唐津と李朝陶に注目した

 「唐津 梶原靖元展」によせて     岸岳古窯址「大谷窯」に隣接する大谷工房「飯洞甕窯」 はじめて梶原さんが、朝鮮半島に渡ったのは2001年のこと。 高麗青磁の古窯址を手始めに、翌2002年には粉引の宝城古窯址を調査され、 当苑での初個展が、2004年10月であった。 梶原靖元展図録地下式単窯 伊万里生まれの梶原さんは、初期唐津の古窯址・大谷窯に隣接する岩山に囲まれている雑木林を切り開き、伐採した杉やヒノキを使って朝鮮風住宅と工房を建てた。 その住居にも目が奪われるが、一歩、大谷工房へ入るとほかの唐津焼作家とは異質の配置となっているに驚く。作品の原料が土ではなく、砂岩だからだ。 それは唐津市梨川内にある初期唐津の古窯址「小十官者窯」からの出土品には土ものではない磁器を思わせる固く焼き締まった絵唐津などが発掘されたことを疑問に思っていた梶原さんがその堅牢さに注目し、砂岩を砕いて原料にすることにしたのだった。 梶原靖元茶碗 「李朝の磁器に使われた原料はカオリンを含んだ砂であることを突き止めた」といい、古窯址付近にある砂岩を採集してから石臼で粉砕し、コンクリートの瓢箪池で水簸する。 水簸中瓢箪池 こうすると粘土として使えるのは2割ほどだという。これらのことに人の手を借りず、時間を掛けて粘土をつくり出し、蹴り轆轤で成形する。 乾燥後、窯詰する窯は粘土だけで築いた半地下式の単窯。薪の灰が掛からないように短時間で一気に温度を上げて焼き上げる。 それは、降灰が器を汚…

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石黒宗麿-五-  終の住まい‥‥京都府愛宕郡八瀬村

JR東海道線の京都東山トンネル付近、東大路から入る醍醐道と日吉南道に挟まれた狭い道には、民家や古くからある窯元が密集している。ここから山越えで山科へと通じる道沿いに京都市立今熊野小学校があり、その北隣には真宗大谷派の即成寺が佇んでいる。 東山覚往山 即成寺の門前に「鬼手佛心」と刻字された石柱が右手にみえる。 「鬼手佛心」とは、仏教の古い言葉で、行動や状況判断は、無慈悲で悲惨な鬼のようであるが、心は仏、衆生に思いやりがある、ということらしい。また、境内には「陶窯の火を打ちとめて天の川  北朗」という句碑もあった。 これらを揮毫したのは、宗麿と同じ富山県出身の陶芸家・内島北朗(喜太郎)である。句文集に『壷屋草紙』(1928年)、句集に『光芒』(1942年)、その他随筆集があり、「文人墨客の陶工」と呼ばれ、昭和53年没した。 「鬼手佛心」内島北朗揮毫側面には山頭火の「 鐵鉢の中へも霰」という句が刻字されている 内島は明治26年(1893)富山県高岡に生まれ、俳人の萩原井泉水(せいせんすい)に師事して、1914年、荻原井泉水の「層雲」に参加した。 萩原没後は発行人となり、自由奔放で淡々と作陶した。萩原井泉水の夫人と内島夫人は姉妹の間柄で、大正十年から内島は京都で暮らすようになり、昭和9年12月、ここ蛇ヶ谷に引っ越してきて作陶していた。 この内島が、宗麿の八瀬への築窯や作陶に大きな影響を与えることとなったようだ。 昭和6年8月、倉敷での宗麿個展のきっかけとなった武内と京都で初めて…

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直木美佐…楽茶碗による唯一無二の表現力

日本橋三越本店にて「直木美佐茶陶展」開催 会期:平成27年1月14日(水)~20日(火) 会場:日本橋三越本店 本館6階 美術サロン 黒楽茶碗「鷹ヶ峯」 ‥‥「直木美佐」への推薦文‥‥ 唯一無二の表現力 心静かに端座して、一喫を欲する‥‥そんな贅を思ってみる。 この季節には楽茶碗がいい、両の掌に抱き、お茶を押しいただく、この触れ合いこそが茶の楽しみでもある。加えて経年の変化により茶碗が手馴れ、深い滋潤の肌を潜ませてくるのもうれしい。 楽長次郎、ノンコウ、そして光悦などの卓越した技に目を光らせるのは楽茶碗一筋に45年間、創り続けている直木美佐さんである。後世に残る名碗を創り出すべく、都塵の喧騒を逃れ、鎌倉稲村ヶ崎に窯を構えてから、一碗一碗に独自の境地を開いてきた。 黒楽 水指 全国の土を吟味して手捻りの造形美と詩情あふれる釉景の融合をはかる。「真黒(まぐろ)」といわれる純粋な加茂川上流にあった貴重な石を砕き、見込みや側面、腰などに釉景を考慮しながら施釉する。腰から高台への箆取りの運びに一切の停滞がなく、高台は絞って品位をもたせた表現美。 唯一無二の個性を刻む楽茶碗だけを焼くために自ら設計した特殊な窯で、薪、松炭とコークスで鞴を踏みながら1200度という通常より高温の窯に一碗のみ入れ、頃合いを見計らって一気に引き出す。その確率は一割に満たないというが、美佐さんの創意を尽くしたその気迫が、凛とした独創性と風格を放つ楽茶碗を誕生させている。           …

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森陶岳 新大窯初窯火入式の神事

現代備前の陶芸界にあって緻密な計算の元での陶にかける情熱とパワーにより 名作を創りだす森陶岳の大胆さと繊細さは群を抜いている。 全てのデーターを採り、時間という重みに耐え抜くことができる作品を目指して全長85メートル、幅六メートル、高さ3メートルという巨大な登窯を寒風に7人の門下生とともに8年かかりで築窯した。 すでに2008年8月19日から空焚きをはじめて、9月6日夜半に火を止めた。 1200度近くの高温を確認している。 「何かに突き動かされる。あとにはひけない。あと10年は生かしてもらいたい」と語った。 県北奥海での粘土創りや3千トン以上の薪つくり、加えて 高1.6m直径1.4m ドラム缶5本分の容量のある巨大な大甕を100点制作。 太閤秀吉が眠っていた甕棺よりさらに大きい。 5年ほどで千数百点を制作され、 2015年1月4日、新大窯初窯火入式の神事が行われ午前十時、森陶岳による火入。 その後、10日間、くゆし(煙を窯に送り込む)を行い、窯焚きは3ヶ月におよぶという。 10トントラックで四百台分、県北から運んだ赤松は約3000トン。 構想から27年、前人未到の壮大なスケールの最終段階の仕事がはじまった。 待ち遠しい窯出は八月、最終的には今年いっぱいかかるというのだ。 森陶岳陶印 大窯 150年間途絶えていた大窯を相生に築いて焼成したのは昭和55年(1980)のこと。 昭和61年(1985)、吉井川東部にある邑久古墳趾の一角、須恵器の焼かれた牛窓町寒風…

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古染付・祥瑞‥‥明末清初の染附

中国明代末期に焼かれたとされる「古染むぎわら筒」や「呉須染附漢詩鉢」は、北大路魯山人が好んだ古染付の作品です。現在、京橋の『魯卿あん』に展示されています。 「古染むぎわら筒」 「呉須染附漢詩鉢」は、儒教思想に源流を詠んだ詩文が、籠字で書かれ、 見込みには「魁」、口縁内側に牡丹と獅子が描かれています。   自由奔放な古染附を好んだ魯山人は、自作「福の字皿」に代表される籠字を好み、 この手の「呉須染附漢詩鉢」をスケッチして、『北大路魯山人家蔵古陶磁図録』の表紙にも使いました。    見込に「魁」同高台 丹鳳来儀宇宙春    中天雨露四時新 世間好事惟忠孝    臣報君恩子報親 朱色の鳳凰がやって来て ありとあらゆるものが春になった。 天の中心にある雨露は季節を新たにする。 世の中のほんとうにすばらしいことは忠誠心と孝行心である。 臣は君の恩に報い、子は親に報う。  古染附は白地に呉須の絵付のコントラストが、素敵なやきものです 玉石混淆とはいうが、古染付においては常にそこに描かれた絵は新鮮であり、 作り手の生気が吹き込まれたように観えて、 手に取って観る者に親しく話かけてくれるかのようです 魯卿あんで使われている魯山人好みの汲出碗 「一流の芸術品が無言の師であるといわれる。 作者は全心(身)を傾倒して自然と取組み、端的にはっきりと自然のエスプリを掴みだして我々の前に展示する。漠とした対象に潜む核心の把握、これが芸術化である。 魯山人」…

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鶏龍山古窯址を発掘調査した魯山人の粉引と刷毛目

侘び茶が流行りだした桃山時代から、茶人の間で珍重されてきたやきものに「ケイリュウサン」という朝鮮半島の粉青沙器がある。世の愛陶家、垂涎の李朝陶であり、魯山人も好んで、「鶏龍山絵刷毛目徳利」「鶏龍山絵刷毛目壺」「刷毛目茶碗」などを所蔵していた。  (昭和9年 魯山人家藏古陶磁図録より)  昭和のはじめ、魯山人はこれを星岡窯(ホシガオカガマ)で再現したいと考えて、試作してみたが、李朝のものとは、格段の差があり、得心のいくものではなかった。  その最大の原因は「粘土の違いだ」と悟った魯山人。 朝鮮半島に渡って現地を発掘調査したいと思いたった。昭和3年、魯山人45歳の時であった。 東鶴寺から鶏龍山を望む 鶏龍山は新羅王朝の時代から5大霊山の一つとして数えられ、仏教の影響が大きく、北西側の麓には十数棟の伽藍をもつ阿道和尚創建による甲寺(カプサ)、東側には最古の尼寺の東鶴寺(トウハクサ・懐義和尚創建)や南西側の新元寺など五~八世紀に建てられた古刹など多くの寺がある。 盆地なのであろうか山容怪奇な岩峰に囲まれ、風光明媚なところだ。李氏朝鮮が建国する際に、太祖李成桂の都を築く候補地にもなって、視察したともいわれている。 14世紀末、倭冦や中国紅巾賊の侵入を阻止して、実権を握った高麗の将軍・李成桂(イ・ソンゲ)‥‥ 元を北方へ追いやった新興の明・朱 元璋(しゅ げんしょう・洪武帝)に近づき、1392年に李氏朝鮮を建国し、「太祖」として初代国王に即位して後、仏教を廃して倹約を奨励…

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