山口淑子 イサム・ノグチ そして 北大路魯山人

李香蘭(りこうらん)の名で一世を風靡した山口淑子(現本名・大鷹淑子)が、9月7日午前10時42分、心不全のため、東京都内の自宅で死去された。94歳、まさに波乱万丈の人生だった。ご冥福をお祈りいたします 合掌   日中の狭間で、世界大戦という激動の時代に翻弄されたが、どんな時でも凛とした気品を忘れない美しくも偉大な女性であった。 一時期、魯山人邸の田舎家に住んだことがあるので、‥‥そのことを少しばかりお話させてください。 1920年2月12日、中国東北部(現:中華民國奉天省撫順市)の満鉄で中国語を教えていた山口家で生まれ、1933年、小学校の時、中国人の将軍の義理の娘となり、「李香蘭(リー・シャンラン)」という中国名を得た。 佐賀県生れの父と福岡県生まれの母をもつ純粋の日本人だが、完璧な中国を話し、歌える中国人女優を探していた満映が山口淑子に目をつけ、1938年、満州映画協会の「蜜月快車」で映画デビューしてから、日本人であることを伏せ、中国の美人女優として売り出された李香蘭(リコウラン)。 1939年「白蘭の歌」で長谷川一夫と共演、同じコンビで「大陸三部作」(『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓ひ』)などをヒットさせ、「満世流芳」「蘇州の夜」「サヨンの鐘」など五族協和、日満親善という国策映画の看板女優・李香蘭として、いつも中国服で通させられた。 山口淑子(Wikipedia) 李香蘭は日本青年に恋心を抱く中国女性を演じ、その美貌とソプラノの美しい歌声で一躍、満映での大スターと…

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備前焼 ‥‥ 北大路魯山人 土味を愛でる

備前焼の故郷・岡山県備前市で一番高い山を熊山という。古くは山岳仏教が栄えた霊峰で須恵器の陶工たちが保護を求めて瀬戸内から逃れて熊山の八合目付近で備前焼を始めたところでもある。 山頂には、方形に石を積み上げた遺構があり、祭神を祭った。この熊山連峰に囲まれた備前市伊部は、熊山連峰から流出した腐植質の土が伊部に堆積し、百五十万年かかって黒褐色のねっとりとした鉄分の多い粘土が田んぼの底に眠っている。この土が室町時代以降、備前焼を焼締陶の雄に押し上げて、破格の隆盛に導いてきた。 北大路魯山人作備前徳利の底 秋、稲刈が終わり、水田の水を抜き、枯れたところで、この田土を羊羹状に切り出して掘り出す。 備前で使用される田土を「干寄せ(ヒヨセ)」というが、どうして、田土(ヒヨセ)がよいのだろう。 田の土は春から秋まで水が湛えられ、収穫が終わると水は抜かれ、太陽に照らされる。 これによって水の中を好む微生物と、水を好まない微生物が交互に繁殖してより良い土を形成するからだ。 こうしてより粘りのある陶土となって、土味の素晴しい作品が生れてくる。 数々の古備前名品を輩出した南大窯に近い田井山の「観音土」は金重陶陽がみつけたブランド土。備前最上の土とされ、若手陶芸家垂涎の粘土となった。 田土を掘りだしてから、自然乾燥させる。ここで土味を大切にする一部の陶工は、篩に掛けたり、水で撹拌する水簸などをせず、水を含ませた原土を足で踏む作業を六、七回繰り返えす。 この足練りした土を針金などで厚さ1センチ位にスラ…

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石黒宗麿…倉敷個展・唐津焼を再興した愛犬家

穏やかで大らかな轆轤‥‥、宋代の焼物に潜む品格はそのままに、  桃山時代の美意識を感じさせる豊かな抑揚。  それは決して本歌を写す自己不在の職人芸ではない。  冷たく厳しい完璧な中国陶磁にみられる表現的な技巧に走るというより、  掌に温かく親しみさえ感じられる独自の造形美が、人に語り掛ける親しみさえ感じさせてくれる。  宗麿自身が己を厳しく磨けあげた文人精神によって、さりげなく創られたものだからだろうか。 石黒宗麿黒釉碗 倉敷での個展 東京の駒場にある日本民藝館の建設を財政面で支えたのは、倉紡社長の大原孫三郎(1880~1942)であった。その6年前の昭和5年(1930)、大原は児島虎次郎に洋画を中心とした美術品収集を依頼して大原美術館を開館させた。 初代の大原美術館館長となったのは武内潔真(1888~1981・きよみ)で、彼は愛媛県北宇和郡津島町の造り酒屋に生まれ、大原家の奨学金を受けて東京帝大電気工学科を卒業したことから、倉敷紡績に電気技師として入社した。倉紡社長の大原に信望され、玉島工場長を勤め、昭和39年に退職するまで大原美術館館長の地位にあった。几帳面な武内は孫三郎にもずけずけ直言する実直な性格であったという。 大原の主治医で岡山県玉島で歌人の三橋玉見邸にあった石黒宗麿作の香合を武内が見たことが縁となって、倉敷で展示会を開催するようになった。三橋は小山冨士夫と同郷ということもあり、交友を重ねて古美術に深い関心を持っていた。 昭和6年8月、武内は近藤悠三を伴い…

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石黒宗麿…金沢から京都蛇ヶ谷へ。終生の友・小山冨士夫と出合う

石黒宗麿が金沢から京都市今熊野日吉町(通称:蛇ヶ谷)に移った経緯は‥‥ 「金沢時代に楽しんで作った作品はさっぱり売れず、売れるのは美術商から頼まれた古陶の写し物ばかりだった」と、宗麿の夫人・とうはいい、これでは偽物つくりになってしまうと考えた末であったと前回述べたのだが‥‥‥‥。 石黒宗麿三彩馬 金沢時代、石黒宗麿が、「窯と工場を作って一緒にやろう!」と、持ちかけた人物がいる。 大正14年に金沢で知り合った吉野政次である。 吉野は明治36年、小松市八幡生まれで、小学校卒業後、母方の叔父・東田作松が講師をしていた京都市立陶磁器伝習所に入所して3年間通った。その後、青瓷を得意とする東田の窯元で閉窯になる大正13年まで助手を務めた。東田の作品を一手に扱っていた金沢の商人・中村梅山(初代梅山)を頼って、叔父とともに金沢に戻り、中村家で築窯、その屋敷内に老若の梅の木が多くあることから「梅山窯」と名付けられた。ここで吉野は京焼での窯業技術を生かし、九谷系の作品を主に制作していた。  この頃、宗麿は犀川の河原にあった貸別荘に、とう夫人と一緒に住んで、犀川の河原にあった「うぐいす窯」で働いていた。時々、吉野と連れだって食事に出かけた。宗麿と吉野は陶藝談義にウマがあい、親しくなる。  「栃木の金鉱山では大儲けし、その金でトラック2台分の紫檀や黒檀の家具を買った。また法被姿の男たち数十人と銀座に飲みに行った」と宗麿は、吉野に鉱山でのよき日の話をした。小川町での貧困の以前には景気の良い時もあっ…

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黒姫の「田舎蕎麦」を打ってみた

大田修嗣さんの刳貫鉢の底に「山の緑 ウルウル 盛り上がって」 柏の竹やぶのご主人・阿部さんが「魯卿あん」にお出でになり、黒姫の「田舎蕎麦」粉をいただいたので、 大田修嗣さんの刳貫の鉢を使って打ってみた。ほのかな香りと甘みがあり、流石に美味! 古伊万里蕎麦猪口で田舎蕎麦 杉台は伊豆の長岡正巳さんからいただいたもの。織部の瓢箸置は加藤舜陶作。セイロは拙作の漆塗。 かえしは、砂糖類を使わない酒と醤油だけのいつもの魯山人風。 今日の出汁は、シイタケ作りの名人・飯田さんにいただいた干し椎茸と昆布で取った田舎風。 竹やぶ 阿部幸雄の世界 http://www.takeyabu.co.jp/concept/ 魯卿あん (Rokeian) 〒104-0031東京都中央区京橋2-9-9 ☎& fax 03-6228-7704 営業時間:月曜日から土曜日 11:00~18:00(日祭日休)   ◇黒田草臣 四方山話◇   facebook kusaomi kuroda 当苑・ブログ“陶心”   Photo:辻岡正美氏

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茶道雑誌 特集「懐石の器にみる茶人のデザイン」

2014 茶道雑誌7月号  特集「懐石の器にみる茶人のデザイン」に 北大路魯山人の器芸術‥‥を載せていただきました。 書道雑誌(2014年7月号) 目次 魯卿あん床 魯山人「尋常一様松」   荒川豊藏 黄瀬戸竹花入 魯卿あん (Rokeian) 〒104-0031東京都中央区京橋2-9-9 ☎& fax 03-6228-7704 営業時間:月曜日から土曜日 11:00~18:00(日祭日休)   ◇黒田草臣 四方山話◇   facebook kusaomi kuroda 当苑・ブログ“陶心”    Photo:辻岡正美氏

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藝術の極地、美の最高‥‥花美術館の特集「魯山人」

あらぶる神に導かれ、頂きの奥深く、一滴が激流となり、 やがて緩やかな大河となる如く、自らの芸術性を昇華させた魯山人‥‥。 自らの眼を鍛えるため芸術を理解する各地の名士を巡り、 とどまることのない探究心と清新な感性を持って、つねに眼を閉じず、 いつまでも色あせない根源的な芸術を目ざした。 「自然は芸術の極致、美の最高である」といい、 つねに自然との交信を怠ることなく、細やかで清新な感性を持って 書、篆刻、画、料理、陶芸、漆芸、建築、造園など妥協しない真の芸術を悠然と追い求め、 人々を驚嘆させる破格の才能をみせつけた大芸術家であった。 『花美術館』№37 特集「魯山人」 ― P1~P31まで執筆させていただきました ― 魯山人のきた路 京都市北区上賀茂北大路町三百五十八番地。 明治一六年(一八八三)三月二十三日、上賀茂神社百二十軒中の一軒の貧しい社家に一人の男の子が生れた。父は北大路清操、母は登女、その子の名は房次郎といい、のちの福田大観、北大路魯卿、北大路魯山人である。 「自分の祖先は藤原時代にはじまり、小生は三十三代にあたる社家に生れているようだが、神仏信仰に関心の薄い小生は、第一、形式嫌いであって社殿も別段気にする質ではないが、さて神殿真近に立ってみては、いささか緊張を感じる」と昭和二十七年五月十四日、故郷の賀茂別雷神神社前で語り、九月に発行された魯山人の生活誌『独歩』の第二号に掲載されている。 上賀茂神社(賀茂別雷神社)社家町の東の端に小さな祠…

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藤原雄と蓮・細野燕臺と黒牡丹‥‥花を愛でる魯山人 ③

荒川豊藏や川喜田半泥子など多くの芸術家と交流のあった大森誠は、岡山屈指の文化人で、のちに岡山結核病院の院長になった人である。とくに北大路魯山人芸術を理解し、互いに兄弟のようにしていた。大森は岡山県の衛生部長をしていた昭和27年、魯山人揮毫の六曲一双 「いろは」金屏風を岡山後楽園に紹介した。 「いろは」の金屏風(167.7×373.0 岡山後楽園蔵) 地元の備前焼にも造詣が深く、藤原啓とその長男・藤原雄とも親しくされていた。 藤原啓と雄は、親子ではじめて人間国宝になった陶芸家である。 昭和二十六年三月、和気閑谷高校を卒業した藤原雄が東京の明治大学文学部日本文学科へ通うようになり、 大森は知識人としての素質を植えつけようと鎌倉山崎の魯山人を訪ねるように促した。 横須賀線に乗り、はじめて会いに行った日に、魯山人から、 「また一人で飯でも食べに来いよ」と言われたので、 藤原雄は毎週のように北鎌倉から歩いて山崎の魯山人邸へ訪ねるようになった。 魯山人も何度か雄の下宿先の荻窪まで行き、 紀尾井町の料亭・福田家や銀座の鮨屋・久兵衛に連れていくほど雄を可愛がっていた。 「魯山人先生には日本的感性とか、美意識とか、風情、人生を粋に生きることとか、モノを上手に活かしていくことなど、陶芸の哲学を学んだ。なにしろ魯山人先生の影響を受けたものだから知らず知らず食いしん坊になった」と生前、話してくれた。 慶雲閣蓮池の前で。奥の田舎屋はイサム・ノグチ邸 ある日、山崎の慶雲閣前にある池に睡蓮…

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「花は一重で、半開きがいい」‥‥花を愛でる 魯山人 ② 

食にこだわり、芸術にこだわる魯山人だが、自然の花にも薀蓄がある魯山人のお話。 魯山人銀三彩鉢青花蛍袋   …野に咲く野菊を見て一向に美しさを感じないで、公園などで陳列される作り菊、すなわち「千輪咲き」などはある意味では美しいが、これは自然美を冒涜する人工美であり、「懸崖の菊(ケンガイギク)」というのも、上向きで育つべきものを無理やり枝を下向きにして懸崖と称して大自慢で自然の風致を見たつもりで感激するなどは、いかにも幼稚で笑止千万‥‥。 東京などの都会では花屋で作り花を買うのは仕方ないと思うが、それを当然と心得ず、山野を歩いて花をあさる心を忘れてはならない。花を生けて楽しむことは自然を愛することである。 人工の家屋を締め切ると庭も眺めることは出来ないから自然物と没交渉になる。床の間に立派な掛け物があっても無くとも、生花なしでは部屋は美しさの調和を欠いてしまう。  掛け物の代りに床の壁の真ん中に中釘を打ち、そこに花入を掛け花として生けるとその部屋は立派に落ちつく。生花を生けるなら自然美を知らなくてはならない。自然美がわかってから、止むに止まれず切り花を部屋に生けるのが真の生花といえる。 ガクアジサイ  花屋に行って花を見立てるならまだしも、電話で花屋から花を取り寄せるなど、そういう花で満足する自体が人として低級さを物語る。山野に花を求めれば、思いもよらぬ美しい花が得られ、今一輪というてもかけがえのないまでに面白い美しい花があるものだ。自然の美しさを手に入れた嬉しさは、到底花屋のそ…

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自然は平等なり‥‥花を愛でる「魯山人」 ①

美の源泉は「自然」にあるという魯山人‥‥ 毎年五月になると、洛北の故郷に咲き乱れたれる杜若と山躑躅‥‥ 幼いころの特別な想い出がある 魯山人作 於里辺八橋「杜若」長角鉢(嵐山吉兆蔵) 昭和27年5月、魯山人はイサム・ノグチを連れて故郷の上賀茂神社社家町にやってきた。 上賀茂神社を参拝後、子供ころにもあった門前の神馬堂のやき餅を食べ、 社家の道を通る道すがら、すぐき屋をひやかしながら上賀茂神社の摂社・大田神社へ。 山躑躅      上賀茂神社社家町 丁度、大田の澤にカキツバタの濃い紫の花が咲き誇っていた。 ここは尾形光琳の燕子花図(根津美術館蔵)や八橋図屏風(メトロポリタン美術館蔵)の写生場所となった場所だ。 「わしが美を意識するようになった初めての体験はこの大田神社だった」 三歳になった時、養母に連れて来られた大田神社でみた紫のカキツバタと赤い山躑躅‥‥ 自然美を凝視し、深くかかわり、畏敬の心を持つようになる出発点となった、あの幼い日の懐かしい光景だった。  大田の澤  「この大田の沢は平安時代から歌に詠まれている杜若群生の名勝地で、光琳もここでスケッチして燕子花図を描いた。古代には深泥池と繋がっていたともいわれている池だよ」と、魯山人。その後、ノグチと一緒に500mほど先の深泥池へ行った。 深泥池で蓴菜採り「星岡」より星岡茶寮で使った蓴菜はこの深泥池の産 「蓴菜は古池に生ずる一種の藻草の新芽だ。その新芽が蓮の巻葉のようだが、これを…

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扇面「春来草自生」‥‥魯山人の春蘭画賛 ≪魯卿あん便り≫

春來草自生「春来たりて 草おのずから しょうず」、或は「しゅんらいそうじしょう」… と読むのでしょうか? 魯卿あんの床に北大路魯山人の「春蘭」が描かれた軸を掛けさせていただいています。 自然美礼賛の魯山人らしい奔放な筆致の画賛「春来草自生」と軽妙な「春蘭」の絵。 扇面に描かれている春蘭の絵‥‥伸び伸びとした艶やかな葉の勢い、まさに春を拡げたかのようです。 そこには瞬時に筆を走らせた独特なリズム、自然美に畏敬の念をもつ魯山人の面目がみてとれます。多くのスケッチや臨書によって鍛えられた筆は、その本質を捉え、格を備えて観るものを飽きさせません。 染附扁壺籠字の春来草自生 魯山人が好んで書いた「春来草自生」というのは北宋時代の仏教書「景徳伝灯録」に 「兀然無事坐   春来草自生」とある言葉からきているようです。 兀然無事坐。春來草自生。  兀然(こつねん)として無事(ぶじ)に坐(ざ)すれば、春(はる)来(き)たりて草(くさ)自(おのずか)ら生(しょう)ず。 「自然の流れに逆らわず、春が来れば自然に草が生え、秋になれば葉が落ちる。 ただじっと座禅をせよ。その時になれば悟りの境地は自然と訪れる」ということらしいのです。                                                  魯卿あん 黒田草臣 魯卿あん (Rokeian) 〒104-0031東京都中央区京橋2-9-9 ☎& fax 03-6228-…

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石黒宗麿…生涯一野人・京蛇ヶ谷への道

「やきものに精神を凝める(こめる)ことが念願だった」と語った石黒宗麿‥‥。 「再現」という古陶の模倣を嫌い、精神性の高い芸術作品を創り上げた。 手廻し轆轤から、昭和7年7月に蹴り轆轤、そして脚を痛めた晩年には電動轆轤を使いこなすその冴えわたる轆轤技術で、独創的な作品を遺していく。 戦後間もなく、柿釉などの洋食器を鋳込みで試みた。通常、石膏の合わせ型からはみ出たバリ(土屑)をきれいに拭うのだが、宗麿はそのまま残して制作した、これが返って洒落たものとなり、実用性や偶然性を否定したオブジェを創り上げ、陶芸界に革新的な造形分野「走泥社」を立ち上げた八木一夫も宗麿に倣って、鋳込みで制作している。 石黒宗麿の作品について、「古典というものを感じるより、むしろ現代そのものにも生きている感覚や瀟洒な好み、造りの確かさと柔軟性、そんなものに感心させられていた」と語っている。 藍彩壺             柿天目やぶれ茶碗 のちの人間国宝・清水卯一ら多くの後進に影響を与えた胴の張った壷の造形に独特の口作り。 洒脱な筆の勢いそのままに躊躇しない絵付、抑揚をつけた轆轤目を残した茶碗。 苔寺(西芳寺)の粗い土を使った破れ茶碗。口作りや高台にもきちんとした美意識が感じられる。 また創りは穏やかだが、内面から湧き出る強い芸術性を秘めた作品。 どれもが石黒宗麿の創りだす作品の特徴を捉えている。 それは宋瓷のように研ぎ澄まされ、人を寄せ付けない完成度の高い作品ではなく、かといって民芸のような俗っぽ…

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荒川豊藏…『十便十宜』蕪村の“宜暁”「染附四方飾皿」   魯卿あん便り

一日の始まりを心地よく告げるという『宜暁』(ぎぎょう)‥‥ 「夜が明けると大きな松の木の間から射し込んでくる。その輝きに満ちた朝の光は、池に反射し、白壁に美しい波紋を陽炎のようにゆらゆらと映し出してくれる。こうして夜があける暁(あかつき)が宜(よろし)い」と清の劇作家・李漁(り ぎょ)が詠みました。 これを基に与謝蕪村が十宜『宜暁』を絵画したものを荒川豊藏が四方鉢に写して水月窯で焼成した「染附四方飾皿」が、魯卿あん (Rokeian)の『魯山人を巡る美の巨匠たち展』に、3月8日(土) まで展示されております。 荒川豊藏「染附四方飾皿」 李漁(り ぎょ)は万暦38年に生まれ、晩年は杭州西湖のほとりに居を構え、『湖上笠翁』ともいわれ、康熙19年に亡くなった、いわゆる明末清初の人。字は李笠翁(りりゆうおう)といいます。李漁が、盧山の麓にある別荘「伊園」で、四季を楽しみながら隠棲生活をしていたところ、客人が訪れ、「静かは静かであろうが、不便なことが多かろう」と問うたのです。 李漁はこれに答えて、 「山地の閑居生活には便利さと自然の素晴らしい宜い所がある」と答えました。 このことを詠んだ漢詩「伊園重縁十二宜詩」(「十便十二宜詩」)から、池大雅が十便、与謝蕪村が、これに合わせて詩情溢れる自然描写の十宜を絵画したものが、『十便十宜』(じゅうべんじゅうぎ)です。 大雅と蕪村という二人は、「日本文人画の祖」としてのちに大きな影響を与えました。 川端康成が家を買うのをあきらめて、蒐集したこと…

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石黒宗麿という陶人‥‥文人陶芸家の逸話

比叡山西麓の洛北・八瀬‥‥ ここが数え切れぬほどの引っ越しを重ねた 石黒宗麿の終の住まいであった。 石黒宗麿は宋瓷を熟知し、 徹頭徹尾その再現挑みながら 清貧に甘んじても尚、野の陶人になりきり、 創られたその作品は厳しい宋瓷とは全く違う 気品・品格を重んじる文人陶工だった。 「十何代‥‥‥‥」という世襲の窯元や千家十職などという既成の権威には強い反感をもち、文展、帝展、日展という官展嫌いで、富本憲吉の新匠会へも組せず、組織への埋没を終始嫌っていた。 また、柳宗悦の民芸運動には、国際的に脚光を浴びた『わかもと』という新栄養剤、消化剤の大宣伝にたとえて揶揄し、「柳の号令によるその創作原理」と拒否した。 晩年の石黒宗麿当苑「桃里会展」図録より 昭和30年に第一回の人間国宝(重要無形文化財技術保持者)に認定されても、その地位、名声に溺れず、貧困を顧みず、作品を売ることよりも、焼成法はもちろんのこと土味や釉調にも工夫をなしながら、常に自らを律する陶芸家であった。 石黒宗麿 詩文 異説     利名疎    作品傳百世 山間可安分 何必用通慧 私の説く説は人々に理解されず、また受入れられない。かえって異端視されている。そんな中で利益や名誉とは縁遠く、精神的には孤高の気持を持ち続けている。それは作陶への闘志となり作品は百代の後までも伝えねばならない思いとなる。真価は必ず後日認識されるであろう。奥深く静かな山間で…

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小林一三と荒川豊藏 「呉須菱馬水指」

大阪池田市にある「逸翁美術館」では昨年春、小林一三の生誕140年を記念し、大名茶人・松平不昧に縁のある収蔵品が展示された。松江藩七代藩主の不昧公が、『雲州蔵帳』(うんしゅう くらちょう)として同家所蔵の約八百点前後の茶道具を収めた茶道具目録。それらの伝来や購入年、当時における評価額、購入金額まで記録されたコレクションとして名高い目録である。 午年にちなんだ「魯卿あん」の設え 明治時代になると『雲州蔵帳』記載の茶道具は散逸し、畠山記念館をはじめ、出光美術館などに買い取られるが、逸翁美術館にも所蔵されている。 不昧を敬愛した逸翁は自著『大乗茶道記』に、不昧に縁のある作品や好みの作品を逸翁が収集した記録を残している。小林一三(号は逸翁)は明治六年一月三日、甲州街道沿いの宿場町・山梨県の韮崎生れだから、一三と名付けられた。 小林一三逸翁美術館HPより 昭和四年に魯山人の展示会で、魯山人作の三島や染付などの作品を見て驚き、陶磁器だけでなく書画にも興味を示して多くの作品を求めるようになり、魯山人と交友を深めるようになった。 今日、一般には宝塚歌劇の父と知られているが、日本の大衆消費や娯楽産業に新しい組織化を取り入れ、その先駆的な推進者として今日の阪急、東宝グループを築いた大実業家。 三井銀行大阪支店長の高橋箒庵(義雄)から抵当流れの美術品を調査することを依頼されたことから茶道具に興味を示すようになった小林は明治の末頃、箒庵を正客として赤坂山王の茶室に招いて以来、茶の湯にのめりこんだといわ…

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2014 初夢初碗展 ‥‥ 魯卿あん 便り

皆様おそろいで、明るい春をお迎えになられたこととお喜び申しあげます 早いものでいつしか松の内も過ぎてしまいました 『魯卿あん』も、初めての新年を迎えることができました 皆様のおかげと感謝いたしております 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます 10日(金)より25日(土)まで 『2014初夢初碗展』 を開催いたします ぜひ、ご高覧いただければとご案内もうしあげます 床:棟方志功「観」 魯山人 瓜花入 水指:荒川豊藏 染附馬菱形 茶入:三輪休和 萩  釜:長野垤志 海老   10日、11日はお茶室にて、お薄を差し上げております 小山冨士夫 斑唐津茶碗 新年にあたり、はるかに皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします  ◇黒田草臣 四方山話◇   facebook kusaomi kuroda 当苑・ブログ“陶心” 荒島岳白山Photo:辻岡正美氏 魯卿あん (Rokeian) 〒104-0031東京都中央区京橋2-9-9 ☎& fax 03-6228-7704 営業時間:月曜日から土曜日 11:00~18:00(日祭日休)

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荒川豊藏…牟田洞窯と水月窯  「魯卿あん便り」

昭和5年4月6日から10日まで名古屋松坂屋で行われた「魯山人作陶展観」に荒川豊藏先生は窯主の魯山人先生とともに会場に詰めていました。豊藏先生は、展示会が終わると魯山人先生の許しを得て、従兄の富田繁昌氏とともに志野が焼かれていたと思われる美濃山中に出かけ、大萱の牟田洞で古窯址を発見されたのです。 日が暮れるのも忘れ、無我夢中で発掘されたこの時、 志野水指の底が割れたものや黄瀬戸、そして鼠志野の陶片、さらに『志野筍筒向付』の陶片を発見されました。 それまで「志野・黄瀬戸・瀬戸黒・織部」などは愛知県の瀬戸で焼かれていたと信じられておりましたので、 この岐阜県美濃の地で焼かれていたことは日本陶芸界、古陶研究者にとって大事件でした。 さほど離れていない土地でしたが、原料である粘土の違いで、大きく変化する釉調が再認識されたからです。 荒川豊藏 志野ぐい呑豊藏先生ならではの悠々とした轆轤。 そしてそれらの自信を窺わせる「斗」の銘が見込脇に釘彫された「志野ぐい呑」です。  豊藏の彫銘:「斗」  昭和八年より桃山志野を再現しようと思考錯誤を繰り返した豊藏先生でしたが、原料となる粘土や長石、 窯の構造、使われる燃料、そして匣鉢などの窯道具らの特定が思うように捗りませんでした。 何度かの失敗のあと、ようやく秋から冬にかけて大萱の谷から吹き上げる北西の季節風を利用したのだと考えられ、執念をもって半地下式穴窯を設計、築窯して、漸く昭和16年に得心のいく作品が生まれたのです。 ある日、窯の…

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大雅堂芸術店・魯山人‥‥「魯卿あん」便り①

大正6年(1917)、34才となった北大路魯卿(魯山人)は、髪を短く刈り、チョビ髭をはやしはじめた。  大正10年ころの魯山人(「美と食の天才 魯山人」 講談社ART BOOKより) この年、実業之日本社の増田義一社長に認められ、同社の刻字看板を制作した。その書体は六朝の字を研究して、広告文字としてデザインしたものだ。 また同社の雑誌「日本少年」(大正6年)、「小學男性」(大正8年)、そして竹久夢二が口絵や挿絵を描いている「少女之友」(大正10年)、さらに「実業之日本」(大正11年)の表紙題字も手掛け、「婦人世界」、「有朋堂文庫」などの雑誌の題字も揮毫した。 「実業之日本」(大正13年) そのような時、美術印刷「便利堂」の田中伝三郎の紹介で、絵ハガキなどを作る「大参社」の中村竹四郎と「メイゾン 鴻ノ巣」で知り合った。竹四郎は伝三郎の弟である。 魯卿は神田駿河台にあった魯卿の自宅に連れて行った。部屋には所狭しと20才頃から魯卿が買い集めた古美術が山と積まれていた。その蒐集品の総てに竹四郎は感動し、直接、その古美術に触れる喜びに、今、自分のやっている印刷業が次第に嫌になっていった。 日本橋、京橋界隈の美味を堪能しながら意気投合した魯卿と竹四郎が、最も多く通ったのは「メイゾン 鴻ノ巣」である。カフェのはしりでもある洒落たフランス料理店「メイゾン 鴻ノ巣」の主人は奥田駒蔵。明治15年の京都生まれ。駐仏公使館のコックとしてフランス料理を学んで帰国してのち、明治43年、…

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三色蕎麦/蒟蒻の昆布〆/酢豚‥‥おいしい器展

三色蕎麦 古染付皿「官人ノ図」 古伊万里そば猪口 蕎麦の実から15%しかとれない芯にある純白のそば粉 手前:これをつなぎを使わずに打った『御膳蕎麦』 奥:御膳粉に卵の黄身を和えて打った『卵切そば』 左:御膳粉に「もってのほか」という山形の食用菊を打ち込んだ『もってのほか蕎麦?』 いずれも、水だけで打った 蕎麦汁は、純米酒を煮詰めて醤油のアクを取ったものを寝かして、出汁を加えた 砂糖類、化学調味料は「御膳粉」に合わないので一切使わない 金重素山 鶴山窯 銘々皿 五  蒟蒻の昆布〆 刺身コンニャクを昆布〆し、茗荷を刻み、酢みそを和えた 金重有邦 伊部四方平鉢 五人 焼鯛の松茸サンド 真鯛の切り身に一塩し、焼いたもの、カナダ産松茸も焼き、オレンジを剥いてサンドした 川瀬竹春 古赤絵意花鳥図四方平鉢 酢豚 豚ロースに塩と胡椒したものを揚げてから包丁を入れ、甘酢に白髪ネギを散らした 金重道明 伊部輪花皿 六人 大根三種 左:丸ごと一か月間、干した大根を輪切りして戻し、昆布・醤油・酒などに漬けたもの 奥:大根を桂むきし、甘酢に和えたもの 右:大根をスライスして、ざるで干し、茹でるを4回繰り返してから片栗粉をまぶして揚げた 森陶岳 備前皿蓑虫コロッケ ジャガイモと人参を千切りし、揚げたものを衣にし 挽肉と生の木耳を刻んでポテトに和えて俵型にまとめ、衣をつけて揚げた 蓑虫に見立てコロッケに焼銀杏 …

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「大雅堂美術店」と「美食倶楽部」の跡地に「魯卿あん」の誕生

いつも、しぶや黒田陶苑へ格別のご厚情をいただきまして 厚く御礼を申し上げます 本日は新店舗開店をお知らせさせていただきます 「魯卿あん」入口 「温故知新」、「自然美礼賛」などを制作の旨として、また食の器の実作者として、人々を魅了させてやまない数々の芸術作品をうみだした北大路魯山人先生。 その類まれな美意識は私どもの憧れでもあり、私どもが美術工芸の作品を選ぶ源ともいえる大切な指針となっております 魯山人阿や免皿 大正8年、魯山人先生は自らの目で蒐めた古美術品を商う、「大雅堂藝術店(美術店)」を京橋二丁目の仲通りに開店させました   その年、京橋の交差点には日本で初めて信号機が付き、自動車が行き交うなど、西洋と日本の伝統文化が織りなす大正ロマン華やかな頃でした このころから魯山人先生は「魯卿」と名乗り、「大雅堂藝術店」を開店させ、二年後にはのちのち語り継がれる「美食倶楽部」を立ち上げたところでもございます 大正時代の魯山人「大雅堂」 このたび、ご縁をいただき、この魯山人所縁の場所に、「魯山人作品」を主力とした新しいお店を開店させていただくことになりました 私は平日、「魯卿あん」におります まことに小さなお店ですが、 自然を大切にした魯山人の気品ある作品をご覧にお立ち寄りいただければ、この上ない幸せでございます …

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