黒田草臣

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zoom RSS 魯山人の美意識D 〜美術へ開眼〜 

<<   作成日時 : 2008/10/02 22:33   >>

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明治維新とともに急激な西洋化の荒波が押し寄せ、アール・デコなどの西欧様式やオートメーションなどの新しい技術や機械の導入が、わが国の古き良きものを捨ててしまう新しい価値観を生んだ文明開化‥‥。それは欧米にない個々の技術者たちの「技」を、のけ者とし、日本独特の美意識が無視されはじめていた。
「これではいけない」と立ち上がったのが岡倉天心である。

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岡倉天心 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
  天心は東京美術学校(現在の東京芸術大学)の開校準備に奔走しただけでなく、
  文化財保護の精神を貫き、今日の文化財保護の礎になった。
  自ら英文の著作『The Book of Tea(茶の本)』などを出版し、日本や東洋の美術・
  文化を世界に向け積極的に紹介した。
 


日本の伝統美術の優れた価値を認め、美術行政家、美術運動家として近代日本美術の発展に貢献した天心は英語が得意だったことから東京開成所(現・東京大学)講師のアーネスト・フェノロサの助手となり、日本美術に傾倒していたフェノロサの美術品収集を手伝った。
こうして明治二十三年(1890)、フェノロサとともに古画の展覧と鑑定会「鑑画会」を興した岡倉天心が東京美術学校の校長に就任した。この年はのちに柳宗悦や濱田庄司などと共に民芸運動を推進し、変化に富んだ独自の造形を確立した河井寛次郎や、「陶芸」という言葉を造語したといわれる河村蜻山などが生れた年でもある。蜻山は晩年、魯山人も縁のある明月谷に窯を移し日本芸術院恩賜賞などを受賞している。

さて、魯山人の房次郎はその前年、六歳。上賀茂駐在所の巡査夫婦と生き別れとなって、その後の養母のあまりの折檻に見るに見かねた近所の人々が相談し合って、四月四日に福田武造という油小路東入ルの露地に面した一軒長屋の木版師に房次郎は預けられた。そこは六畳の仕事場に四畳半の台所という家に、夫婦と職人の水野半次郎の三人が暮しており、おまけに六匹の室内犬が同居していた。
この6月に福田夫妻と正式に養子縁組し、福田房次郎と服部姓から改姓しているが、ここでもまた、それほど大事にされず、孤独でみじめな少年時代を送ることとなる。しかし小学校(このころは四年制である)には入学はさせてもらえた。学校での房次郎は目立たない色白の少年で、友達と遊ぶより一人でいる方が多い、内気な性格の目立たない生徒だった。いつも鼻水をたらし、埃のついた着物の袖で拭う房次郎の鼻はいつも真っ黒だった。
房次郎は養父の武造の木版や印版の仕事を手伝いながら、出来上がったものを届けに行かされた。そのお得意先の一つに同じ町内の印刷屋「便利堂」があった。
房次郎と仲が良かったのが便利堂の三男坊・田中伝三郎である。そしてまたこの伝三郎の弟こそが、のちに星岡茶寮を共同経営する中村竹四郎であった。

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魯山人 銀彩色絵格子花瓶


明治二十六年(一八九三)の三月、十才になった房次郎は尋常小学校四年の課程を終了。魯山人と深い関わりをもつようになる荒川豊蔵や石黒宗麿が生まれた年、房次郎は和漢方薬の専門店に丁稚奉公に出された。世にいう口べらしである。
当時、小僧たるもの、朝は皆より早く起き、店中の拭き掃除、店の前に打水をする。さらに便所掃除、主人や番頭の下駄掃除をしてから、へっついに薪をくべ、ご飯を焚く。房次郎は真面目に働いた。手足が冬にはひび、アカぎれでどす黒く盛り上がっていた。食事は朝粥に梅干、沢庵…これが丁稚食。たまもらえる給金も養母が先取りしてしまうから、好きな銭湯にもいけない。朝から晩まで薬研を挽いたり、袋詰めをする仕事は無限にあり、一日中、使い走りばかりの文字通りの滅私奉公だ。
ある日、配達の途中、しりきれ草履でペタペタ街を歩いていると、ある看板が目にとまった。この歳の子なら、せいぜい「大きいな看板だな」と通り過ぎてしまうが、房次郎は大きさより、その書体に興味をもったのである。この頃の看板は名のある書家が独特の書風を競って銘木に書き、それを元に彫り師に彫らしたものが多かった。
房次郎の埋もれていた感性がその足を止めさせ、つきぬ興味と向学心に燃えたたせる房次郎は、飯焚きの時に、その日に見た看板で、気にいった書風をまねて竈の灰に火箸で字を書いてみた。読めない字でも書くことは嬉しかった。
この頃、新聞の漢字にはルビ(ふりがな)があり、昼間見ても読めない漢字を、目を皿のようにして古新聞から探しだした時には目を輝かしたという。好奇心とともに自習自学が自然と身についていったが、これが生れてはじめての目的をもった美への開眼であった。

さらに使いでよく通る御池通油小路に料理屋「亀政」があり、その行灯看板に目を惹きつけられた。塀越しに見える行灯に亀の絵が一筆描きされていた。房次郎には亀に紐が結わかれ、その紐が「まさ」の字を描いているように見え、子供心にも共感できたのだ。不思議な感動を覚えた房次郎はのちに亀政の長男・竹内栖鳳が毎年正月に張り替える度に描いていたものだと知った。
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竹内栖鳳 「斑猫」 山種美術館蔵(重要文化財)
「動物を描かせてはその匂いまでも描く」といわれたほど写実にこだわった栖鳳は
「写生帖は侍の刀」といい、いつも肌身離さず携帯していた。



房次郎が魯山人となり、30歳を過ぎてから奇しくもこの竹内栖鳳の画印を彫るようになり、終生、尊敬の念をわすれず親しく交わるが、当時は知る由もなかった。
こうして絵画に異常なほど深い関心をしめした房次郎は栖鳳にあこがれ、
「いつしか日本画家になりたい!」と思うようになり、飯焚きの竈の灰に火箸で、栖鳳の描いた亀政の「まさ」の筆使いを思い出しては真似して、毎日毎日稽古した。
その独学こそが房次郎の才能を開花させることとなっていく。



◇黒田草臣 四方山話◇


〜魯山人の後姿〜@ [序]上

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