石黒宗麿…倉敷個展・唐津焼を再興した愛犬家

穏やかで大らかな轆轤‥‥、宋代の焼物に潜む品格はそのままに、 
桃山時代の美意識を感じさせる豊かな抑揚。 
それは決して本歌を写す自己不在の職人芸ではない。 
冷たく厳しい完璧な中国陶磁にみられる表現的な技巧に走るというより、 
掌に温かく親しみさえ感じられる独自の造形美が、人に語り掛ける親しみさえ感じさせてくれる。 
宗麿自身が己を厳しく磨けあげた文人精神によって、さりげなく創られたものだからだろうか。


石黒宗麿画像黒釉碗


倉敷での個展

東京の駒場にある日本民藝館の建設を財政面で支えたのは、倉紡社長の大原孫三郎(1880~1942)であった。その6年前の昭和5年(1930)、大原は児島虎次郎に洋画を中心とした美術品収集を依頼して大原美術館を開館させた。
初代の大原美術館館長となったのは武内潔真(1888~1981・きよみ)で、彼は愛媛県北宇和郡津島町の造り酒屋に生まれ、大原家の奨学金を受けて東京帝大電気工学科を卒業したことから、倉敷紡績に電気技師として入社した。倉紡社長の大原に信望され、玉島工場長を勤め、昭和39年に退職するまで大原美術館館長の地位にあった。几帳面な武内は孫三郎にもずけずけ直言する実直な性格であったという。
大原の主治医で岡山県玉島で歌人の三橋玉見邸にあった石黒宗麿作の香合を武内が見たことが縁となって、倉敷で展示会を開催するようになった。三橋は小山冨士夫と同郷ということもあり、交友を重ねて古美術に深い関心を持っていた。
昭和6年8月、武内は近藤悠三を伴い、蛇ヶ谷の迦洞無塀(かとう むへい)宅を訪問、そこで宗麿と体面し、十月にも昼食をともにしている。翌、昭和7年、倉敷市の新渓園の皐月会バザールで『宗麿展』を開催することになった。皐月会は倉敷紡績社員の孫三郎夫人の寿恵子などが大正九年に結成したさつき会のボランティア組織で、会員からの賛助金、融資からの寄付金を財源としていた。
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大原美術館「新渓園」

会場の新渓園は明治26年、倉敷紡績の初代社長大原孝四郎氏の別荘として建設された和風建築で、のちに大原家が倉敷市に寄贈した総面積6600㎡の庭付き邸宅である。
 宗麿が武内に宛てた昭和7年5月24日消印の手紙‥‥
「只今刷物拝見しました 私の思った通りに出来 大変満足しております 25日窯出して
26日午後出発致します 最早や到着して居ると思います  刷物や一切が立派であるのに 作品がお粗末 貴地へ足が向き憎いのです 面の皮を厚くする修行に参ります」
刷物とは倉敷での個展PRチラシ。その紹介文は武内が、「石黒宗麿と其作品」と題して起草している。
「君ほど貧しさに直面して悠々たる人を見たことがない。洛東蛇ヶ谷に於ける君の工房はこの事を如実に示してゐる。君ほど頑なにして生一本の道を進む人を我々は知らない 君の作品はこの事を雄弁に語ってゐる。君ほどこの世を迂闊に暮らしてゐる人はないであろう。何故なら、君は瀬戸物の世界の他には美しいものも、正しいものも、為すべき事もないのだと信じ切ってゐるからである。
それ故に君の作品は性根の限を尽して、深く行き届いて居り、又強く一筋で、人に媚びる所がない。君の領域は截然としてゐて、何等のカムフラージを帯びない。だから君の作品は萬人から生温く愛玩せられる事を屑しとしない。熱愛か、然らずんば冷殺、それをこそ君は自若(じじゃく)として待ってゐるのである。そこに透明蕪雑(ぶざつ)な君の作品の凛如たる威容を観、又独自の境地に立ちて泰然たる作者の気魄の磅礴するを窺ふ事が出来る」
すでに宗麿の孤高さを物語る内容だ。
二十六日の夜、倉敷に着いた宗麿は二十七日に展示の陳列を終えると、大原孫三郎が下見に訪れ、作品を多数予約した。一般公開は二十八日と二十九日、孫三郎は初日に三回も会場に訪れるほどだった。
「石黒氏陶器非常ニ気ニ入リ コレマデノ展観中一ト称セレル」
昭和五年には近藤悠三が、六年には宗麿と同じ蛇ヶ谷の迦洞無塀が展観しているが、彼らよりは良い展観であったと解釈されている。昭和七年が売上三十九円五十銭、公務員の初任給が七十五円という当時の物価からみれば相当な額で、この倉敷での展観は富山県下でも報道された。
二度目の「さつき会バザール」は昭和九年五月二十六日と二十七日で蛇ヶ谷の陶工・中川泰蔵と二人展を展観し、中川が五百八十三円、宗麿の売り上げは五百十三円であった。


無類の愛犬家・宗麿

大原孫三郎から贈られた画像愛犬「Rosa」
-石黒宗麿書簡集1より-
宗麿は愛犬家である。
その愛犬の「ゲル」が、急性肺炎で亡くなったことを武内から知らされた大原孫三郎は、個展の直後に個展開催のお礼として雌のシェパードの子犬を贈っている。宗麿は「ローザ」と名付けて大事に育てていた。
「ローザは高飛びの練習を今やっております。ステッキを飛ぶようになり、ステッキを前に突き出すと飛ぶ準備をやります。 軽快に出来ている為に一寸小犬の様でない姿をしています。 毎朝、二階へ起しにきます。段ハシゴの上り下り自由です。板を飛ぶときは三尺越します。上縁に前足を掛けます」と、武内にローザの写真を二枚同封して手紙を送った。
ところが、不運にも四ヶ月足らずで死亡。武内は「石黒氏ニ慰問状ヲ出ス マタ大原家カラ シェファードノ仔犬ヲ貰ッテヤルカラ、悲観スルナトイッテヤル」と9月24日の武内日記に綴った。
翌昭和8年、これを知った孫三郎から、またシェパードを贈られ、同じくらいの大きさのポインターの雑種を遊び相手にあてがって育てた。発育のよくないポインターを「チビ」、シェパードを「デカ」と名付けた。
それから一月ほどでデカはジステンパーに罹ったが、獣医が驚くほどの回復をみせて宗麿を安心させた。
ところが翌九年四月、「デカ」が何者かに連れ去られた。高級な犬を狙う犬泥棒である。
「家内も 神だのみやら八卦やらお札やらで、気狂みたいになって居ります」と武内に手紙を書いた。ようやくデカが発見され、戻ってくると、
「此の様に愉快な手紙を書くことは、生涯幾度もないと思います。 とても筆紙につくすこと不能です。 全市に網を張り廻して血眼で探しました。 軍用犬協会支部でも、全力をつくして呉れました。天長節の朝、小関君(北野中学教論)東山七条から電車に乗り、発車した恰度其時、四十才位の角刈り頭の男。デカによく似た犬を連れて日吉神社の方へ行くのをチラと見て、それが其儘(そのまま)電車ハ進行して仕舞ったし、学校の時間もあるので、はっきり見届けずに、翌晩、僕に其事話してくれたので、それでは毎朝五時から七時まで東山通に出て見る決心をして、妻が翌日馬町辺まで未明にブラついて居ました。出てきた、デカと黒犬(雑種)と二匹連れて。ところが胸がドキドキして、はっきり判断つきかね 実によく似ている。 それからその近所に知人があったので、犬を引いて行った男のこと尋ねてみると、この近所の者であること。セファードは最近連れて歩くこと。朝六時頃と午後四時ごろ連れて出ることを聞いて帰宅しました。どうもデカに似ているがハッキリせぬ、それで其の日午後二人で行って 若しデカであれば腕力をもって奪取すること。その間に妻が円タク拾って警察へ通報することとすっかり準備をして、円タク代を忘れるなと言っているときに、予て依頼しておいた犬ボーイで東山一帯を受けもってる男が犬を連れて「ソラ おウチへ来たゾ」とデカを返しに来ました。その男も四五日先から注目して犬捕の家を尾行していたようで、確かと見た上、午前十時頃から三耳壺まで交渉して連れ帰ってくれました。デカはかなり痩せました。そしてオジオジとして落ち着かず、今朝から大分回復した様ですが、此の犬捕り、思う存分心の晴れるまで一つイジメてやる方法を考案中です ‥‥」
 京都へ来てから犬とともに生活した愛犬家・宗麿の面目躍如というところ。三十二年間、暮らした宗麿の八瀬の庭には犬の墓が合計七つあったと小山冨士夫はいう。


唐津に登窯を築窯

画像古唐津片口

唐津では蹴り轆轤が主流。李朝陶技の流れを汲んでいるからだ。両手が自由に使える蹴りロクロは朝鮮から須恵器とともに渡ってきた便利な轆轤。このころ宗麿は京都の手廻し轆轤から蹴り轆轤に変えた。
昭和七年五月、京都の商工国立陶器試験場で、古唐津の研究者である金原京一と水町和三郎が大正十二年から昭和七年まで唐津で発掘した陶片一万点と、伝世品三百点を併せて展示会を行っている。
これに刺激を受けた宗麿は昭和八年、共同窯で唐津風作品を焼いた。窯出すると宗麿は、「唐津風茶碗は今までの作家のどれよりも負けないし、更に古名品作品とならべても遜色ない」と自信をもった。
「小山冨士夫君が来月、京都に来ます。小山君にも茶碗を見せたいからその後に送ります。あいつ生意気だから一つテストをしてやります。でも久しぶり会うので楽しいです」と武内に連絡した。
京都に来た小山冨士夫に、この唐津風茶碗を宗麿は自慢げに見せたが、
「形もよいし、外の景色もよいが、中がブタブタしているよ」と酷評された。
この自信作の茶碗を犬のお礼として孫三郎に贈くることにしたが、運送中に割れて届いたと武内から連絡を受けた。これを知った宗麿は、「武内様 ただいま電報を拝見いたしました。‥‥三か月も睨みつけたために茶碗も弱っていたかと存じます。それに負けぬもの あとからゾクゾクできねばダメです。また作りえると確信します。その次に送るものを待ってください」と、武内に手紙を書いた。孫三郎は「石黒氏の茶碗は破れていてもよいからみたい」と、言われた武内は、大原家に持参した。その後、繕って用いたといわれている。

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古唐津の故郷「岸岳」


宗麿は唐津に興味を示し、昭和四年、唐津の飯洞甕窯や道納屋谷の古窯址を散策しながら研究したが、本格的に唐津に取り組むためには古窯址をよりじっくり発掘調査して、なお制作には地元の土を使わねばと思った。
そう考えた宗麿は蛇ヶ谷の家族にわずか五十銭だけおいて昭和十年三月十三日の夜汽車で倉敷の武内宅をたち唐津に向かった。唐津へ着いたときの宗麿の所持金はわずか二円五十銭であったという。
地元の資産家でお茶碗窯の復興を支援した古舘九一を訪ねて古陶片を見せてもらい、金原京一、古館などとともに一緒に飯洞甕、帆柱、道納屋谷、道園などの古窯址を発掘調査しはじめた。

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古館九一  拙文:桃山に帰れ‥‥古唐津復興    岸岳古窯址発掘


はじめ唐津紺屋町のたまや旅館に滞在し、中里太郎右衛門窯のところで作陶を指導しながら自らも失透釉、斑釉などで作陶。その後、唐津市京町の鉄材商・三浦竜太郎老人の離れで二ヶ月起居し、四月六日にはとう夫人も三浦家に呼んだ。三浦は表向き鉄材商だが、根からの骨董好きが転じて古美術商も兼ねていたので宗麿とウマがあった。三浦とはその後、昭和十五年に没するまで親しい交際が続いた。

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飯洞甕上窯


唐津滞在中の三月十五日、宗麿は唐津の実情を大原美術館の武内潔真に手紙を書いた。
「古格を保った昔のままの土がいたる処にあります。心踊ります。明日から仕事にかかります。環境はよし、人情はよし、静かな中に清らかな高い響を周囲の風物から受けることができます。‥‥なぜ若い作家なりの人々が唐津を嫌うのでしょうか、京都のことなど忘れて唐津におります。出発の時、女房に小遣い与えず、私自身旅費ぎりぎりで来ましたので、今日、三橋さんへ泣きついておきました。(唐津焼を)土地の人さえ知りません。骨董屋店を見てもカケラさえ見当たりません。完全に滅びてしまって、ただ、各所に窯跡らしい丘に高台など見られるくらいのものです。宝のような原料がかくも無尽蔵に何処掘ってもあります。腰をおとして作ります。 宗麿 武内様」
「強靭で鋭い、そして明るい」という宗麿のみた古唐津。その長い歴史のある唐津焼が廃れてしまい、唐津の復興について古館九一、高取九郎、金平京一らと古館邸に集まり真剣に考えた。
四月九日には「古唐津そっくりな土が見つかっている」と小山冨士夫に手紙を書いている。
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太郎右衛門窯


宗麿は断絶していたお茶碗窯を再興させた無津呂重雄(中里太郎右衛門・無庵)を技術面で指導し、自らも蹴り轆轤を使って京都で培われた気品ある技を駆使し本歌とは一味違う絵唐津を制作した。
中里のお茶碗窯は古館らの援助で築窯された倒炎式の石炭窯だったので、「古唐津に迫るやきものを再現するには薪窯でなくては」という宗麿の提唱で、京風の登窯を築いた。
「京都の半年分の仕事を一月でしたと思った」と、宗麿は唐津に永住することも考えるほど古唐津再興を願った。唐津の八ヶ月滞在して皮鯨の斑唐津茶碗や無地唐津の茶碗や絵唐津笹文大鉢、朝鮮唐津皿、徳利、李朝風の鉄絵魚紋組浅鉢などを制作して、唐津滞在のお礼もかねて三浦家に寄贈した。昭和十年五月末、思うような絵唐津や斑唐津が焼けたことで、
「唐津復興展を東京、大阪、京都でやりたい」と、宗麿は倉敷の武内宅経由で五月二十一日、京都に戻った。宗麿は絵唐津を銹絵、鉄絵、斑唐津を失透釉、朝鮮唐津を掛分釉と呼び、それぞれを箱書している。
この頃の唐津茶碗や皿などの作品を古美術商たちが、宗麿の刻印を鏨で削り取って古唐津として販売したものを、当時の陶磁器研究家・蜷川第一や川喜田半泥子が見誤ったと、昭和三十六年十二月から北日本新聞夕刊に連載した随筆『櫟蔭閑話』で述べ、その時の自信を顕している。


参考文献:拙著「名匠と名品の陶芸史」(講談社メチエ)・作品傳世 石黒宗麿(しぶや黒田陶苑)・月刊文化財(第一法規出版)・石黒宗麿 人と作品(朝日新聞社)・陶芸石黒宗麿作品集 (国立近代美術館)・ 石黒宗麿図録(射水市新湊博物館)・石黒宗麿書簡集(射水市新湊博物館)、小野公久氏の評伝などを参考にさせていただきました。


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  ◇黒田草臣 四方山話◇  

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