木村盛和「木の葉天目」再現、越前の地に‥‥先生を忍んで②

京焼の源流といわれる「音羽焼」が、この地にあったことから京焼のメッカとなった五条坂‥‥。
奥田頴川、仁阿弥道八など活躍で江戸時代後期には粟田口を凌いで 
急速に発展して「清水焼」を確立させた場所でもある。


この五条坂で作陶をはじめられた盛和先生は16歳の時、京都市美術展に初入選して早くも頭角を現した。
陶芸家としての第一歩を踏み出され、昭和12年から試験所の職員として、釉薬のテストを重ねてこられた。
特筆するのは窯業化学的な研究だけにと止まらず、原石や鉱物から釉薬を作り出すことに専念していたことだ。
「この五条でやきものの釉(うわぐすり)が、わかるのは木村さんしかいないね」
と八木一夫に言わせたほど群を抜く研究熱心さだった。

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鉄分の多い胎土に漆黒の釉がたっぷりと掛けられ、輝く斑紋が浮かび上がっている「油滴天目茶碗」(国宝・大阪市立東洋陶磁美術館蔵。東博や静嘉堂文庫の油滴天目茶碗は重文)に憧れをもって『天目釉』を追及するようになられた。宋代の陶工を想い、全国の鉱山などを廻って探索するようになられた。
その結果、盛和先生の油滴天目作品には800年前に焼かれた建窯の天目茶碗に劣らぬ深味と重厚さが備わっていた。

北宋から南宋代に焼かれた「天目茶碗」の故郷は福建省建窯が有名だが、江西省にも「玳玻盞」「鼈盞」など特異な天目茶碗が焼かれた吉州窯がある。ここではバリエーション豊かな天目を焼いているのだが、なかでも最も個性的なのが『木の葉天目』だと思う。とくに前田家伝来の『木の葉天目茶碗』(重要文化財・東洋陶磁美術館蔵)は黒地に黄色い虫食いの木の葉が美しい茶碗で、偶然焼かれたのだろうか、伝世品は少ない。

この「木の葉天目茶碗」の故郷・中国江西省は花崗岩と石灰岩で覆われている。
その地質は蚕の主食となる桑の木が育ちやすいのだ。
こう考えられる……晩秋の窯場には紅葉の後の枯葉が舞い散っている。……そこに窯入れを待つ天目釉のかかった茶碗が乾かしてあった。一枚の桑の葉が碗の中に舞い落ちた。陶工がそのまま匣鉢に入れて、窯詰めして焼いてみた。……窯出の日、「なんと!」一枚の葉は見事に焼きつき、一碗だけ『木の葉天目茶碗』が偶然、生まれたのだろう。その後、再度試みるが、まとも木の葉茶碗として焼けるものは少なく、そのほとんどは、手を加えたものが多い。

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盛和先生作「木の葉天目」の失敗作(葉が半分めくれている)


石黒宗麿に続いて木の葉天目を再現させたのが木村盛和先生だった。この成功でマスコミ(NHKなど)の取材を受けて一躍、注目の的になられた。
何度か清水焼団地町の工房で、新作の「木の葉天目茶碗」をみせていただきながら、その苦労話をお伺いしたことがある。
「欅か椋(ムク)の葉を試験しました。方々から集め実験しましたが、葉脈の残る椋の葉に特定したのです。晩秋、木の葉が地面に落ちるのを待って採ります。葉は地面に落ちて放置してあったものは、もう、駄目なんです。形が良く肉厚で大きいものを選びますが、300枚拾って、満足に使えるのは十枚位しかないのです」
丹波へ出かけ、珪酸分のある樹木をさがした。生い茂っている葉をとって焼くと水分が多すぎてすぐに丸まってしまうため、葉が樹木で枯れ落ちる時が一番良いというのだ。
「海抜200m位のところにある元気な若木の葉が、焼き付きやすく、落葉する頃は、珪素が葉先までいきわたって、葉脈もきれいに出やすいのです」
丹波で見つけられ、毎年のように採取していた椋の大樹は、大人がふた抱え半ほどの太さがあったという。
「茶碗自体の収縮は100分の17程度ですが、木の葉は器面に焼き付くと4分の1から5分の1の大きさになってしまうほど大きな収縮があります」
それゆえ、茶碗では縁からはみ出るぐらいの大きい葉でなければならない。
「木の葉天目というのは、確率の低いものだと思います。窯の中に入れましたら、後はもう『葉っぱ』まかせで、どうにもならないですからね」
とにかく、ガス窯での焼成でも、窯詰の場所を特定できないほど、その確率は「10%以下」だといわれるのだ。
試行錯誤を繰り返しながら成功させた盛和先生は「黒釉」のみならず、「油滴天目」「鈞窯」「青瓷」「白瓷」「灰釉」などにも『木の葉』を成功させた。まさに釉薬研究の鬼・盛和先生の面目躍如だった。

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「木の葉油滴天目茶碗」部分


清水焼団地で作陶されるようになられて10年目の昭和51年には、喧騒を離れて「作陶に専念しやすい工房を作ろう」と福井県丹生郡朝日町佐々生にある小倉見の山沿いに移住し、地名をとって「小倉見窯」とされた。福井は奥様の故郷でもある。
土地を求めたころ、タイミングよく越前玉川温泉の築200年の総欅作りの立派な屋敷が解体されることになり、その家屋を広い敷地に移築してご自宅とし、ほかに陶房、材料置き場などをつくられた。
心臓部と言える窯は登窯、重油窯、電気窯。それにガス窯は五台。そのうちの一台は1400度の高温焼成のできる窯だ。
原石を砕いて釉薬をつくるために、叩いて粉砕するスタンパー、より細かく潰すクラッシャー、量の多い粘土を調整するフィルタープレス、トロンメル2台、ポットミルなどを導入した。まさに釉薬工場のようだった。
鉱山や離島を巡り、秋田の花輪鉱山では檻のような昇降機で200mも立て抗の地下深く降りて、ヘッドライトで照らし出した岩肌はマグマのが噴あげた断面をのようだったという。
これらの原石鉱物を粉砕して1000回近い焼成のテストを重ねてこられ、「油滴天目」「鉄銅釉」のほか、「銅釉変結晶」では七色の虹彩を発色させた。
各国から取り寄せた宝石母石を砕いて「ルビー釉窯変」「エメラルド釉窯変結晶」「クリンコーラ窯変結晶」などという無限で複雑に輝く作品を発表されたのである。

クリンコーラ窯変結晶画像耳付扁壺
2012年 作陶74年・卒寿展 高島屋図録より
南チリ・アンデス山脈のロスプラペレスから取り寄せた「クリンコーラ」からの釉薬による


小倉見窯へ伺ったある日のこと、
「黒田さん、今日は縄で縛れる豆腐と箸では持てないスプーンで食べる豆腐をごちそうするよ」と笑顔で言われた。食通の先生は京都時代から豆腐も大好物だった。
「そんな豆腐があるのですか」
私は半信半疑、食いしん坊の私には願ってもないことだった。
「そろそろ、温泉に入りに行こう」と誘っていただいた。
眺めがよく、夕陽が美しく見える高台にあった。
「この夕陽を君に見せたかった」と、ご一緒に風呂につかり乍ら語る先生の優しさを強く感じた。
日が落ちる頃を狙って誘っていただいたからだ。
浴後のご馳走は格別である。
奥様の手料理が次から次にテーブルいっぱいに並んだ。
「縄で縛れる豆腐」は白山の伏流水で作られた堅豆腐。チーズのような弾力と大豆の旨みが絶品だった。
今では珍しくないが、「箸にはかからないクリミーな豆腐」(汲み上げ豆腐)をいただいた。
出来立てのとても甘くて風味豊かな絶品の豆腐だった。

☆  ☆  ☆


想えば越前焼のみならず多くの工芸家のリーダーとして若手育成に尽力されてこられた。
作家としての技術向上のために陶芸、漆芸、金工、木工など作家を集めて「工芸懇談会」を発足させ、25年もの間指導し貢献してこられた先生を慕って越前に住み着いた作家も多い。
私はそのような盛和先生と懇意にさせていただいてきた。
お元気だったあのころを思うにつけ、哀しみが込みあげてきます。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。‥‥合掌‥‥


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